識別記号 | ac1950001 |
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資料記号 | 25A |
標題 | 信濃国佐久郡下海瀬村土屋家文書 |
年代 | 1591年~1908年 |
主年代 | 江戸後 |
年代注記 | 天正4年(写)、1629(寛永6)年-1908(明治41)年ただし天保後期-安政前期)の史料の殆どを欠く |
記述レベル | fonds |
書架延長/数量 | /6804点 |
物的状態注記 | 6804点(2035冊、4657通、52枚、24綴、36鋪)及び6袋、6包、1括 |
出所・作成 | 土屋家 |
履歴 | 土屋家は「伴野土屋系図」(土屋久寿弥太氏所蔵)によれば、その祖先は伴野氏で、伴野氏は清和源氏新羅三郎義光の支流で、源頼朝に仕え、佐久郡伴野庄を与えられ、伴野六郎時長を祖とする。与左衛門善忠のとき、土屋と改姓し、初代とした。初代については史料を欠くが、2代目与左衛門は1629(寛永6)年の検地帳に名請人として登録されて、3代目忠右衛門(与左衛門)は重立百姓の一人であり、以後4代目・5代目とも忠右衛門を名乗る。名主役としては、4代目が1682(天和2)年・1686(貞享3)年、5代目が1709(宝永6)年・1713(正徳3)年・1717(享保2)年の各年(いずれも8月から翌年7月迄)の名主を勤めている。1739−1767(元文4−明和4)年まで家督にあった6代目与左衛門は名主を勤めておらず、7代目忠右衛門督征が1770(明和7)年・1777(安永6)年と1788(天明8)年に名主を勤めている。以上のように4・5・7代目忠右衛門は2、3回の名主勤役に終わっている。これは当時、名主の年番制によるものである。1790(寛政2)年に家督相続した8代目与左衛門忠重は、1798(寛政10)年若冠16歳で名主を勤め、1800(寛政12)年・1801(享和元)年の2か年を除いて、1823(文政6)年隠居の年まで毎年名主を勤めた。続いて9代目与左衛門忠也も13年間毎年名主または組頭役を勤めている。10代目与左衛門忠孝はわずか20歳で病没し、11代目与左衛門忠儀が、1856(安政3)年以後名主または組頭役を毎年勤めた。1864(元治元)年忠儀は郡中の取締役に任命され、大日向・樋口・崎田・下海瀬・余地・海瀬新田六か村組合村の治安維持にあたり、1869(明治2)年勧農役に任命され、翌年与一郎と改名した。与一郎は1874(明治7)年横浜で民事の代言人として活躍するが、失敗し、1892(明治25)年海瀬村へ帰村する。与一郎の長男忠三は1889(明治22)年海瀬村助役となり、1896(明治29)年村長となり、1899(明治32)年まで勤めた。 (関係地)信濃国佐久郡下海瀬村‐長野県南佐久郡佐久町海瀬[現在] (主題)名主・組頭 (役職等)名主・組頭 |
伝来 | 1950年に原蔵者より譲渡。 |
入手源 | 原蔵者 |
範囲と内容 | 土屋家文書は下海瀬村の村方文書で土屋家に伝来したものが中心であり、土屋家の私文書は比較的少量である。村方文書の大部分は土屋家歴代当主が名主・組頭などの村役人を勤めた時期、主として近世中期以降明治初年までのものであるが、その間村役人を勤めなかった時期(天保後期-安政前期)の史料の殆どを欠いている。支配関係文書では下海瀬村が幕府代官所村落であるので、支配交替・陣屋などの代官に関するものと触書・回状が多い。村政文書が本文書の中核をなしており、多種多量である。村法・御用留日記(公用日記)等が、1714(正徳4)年-1867(慶応3)年まで存在している。村役人関係文書からは、近世中期以降村役人の年番制が成立しており、幕末には村役人入札も行われていたことが判明する。また、1801(享和元)年以降組頭増員、1805-1818(文化2-文政元)年の本郷名主2人制と百姓代増員、1822(文政5)年以降の年番組頭新設の村役人拡大要求がみられる。治安関係は騒動と取締に関するものでは、1868(慶応4)年の上州騒動、1869(明治2)年の大日向・上海瀬村騒動などに対する土屋家の取締役の立場の史料が注目される。明治期の村政文書は土屋忠三が海瀬村助役・村長時代のものである。戸口文書では、「家数人別書上」「五人組帳」「人別送状」等が揃っているが、五人組が親類縁者による同族団的結合で構成されていたものが、弘化年中の代官川上金吾助は家並最寄による地縁的な五人組に編成し直すよう命じていることが注目される。土地文書では「名寄帳」「石高帳」は一番・二番・入作の3冊で一揃いとなっている。開発では下海瀬村・同新田村の千曲川沿いの川原開発に特徴がある。林野文書では、下海瀬・上海瀬・海瀬新田村3か村入会の真木沢山に関する史料が中心である。貢租文書では、「年貢割付」および「皆済目録」は原史料が僅少で写しが主である。下海瀬村は後期には定免が主で、凶作には破免検見を受ける。村入用夫銭関係文書では、「村入用夫銭書上帳」は代官所に提出、奥印を受けたものおよびその控・写等である。夫銭附込帳の公開等の要求をもって村方出入が十数年続いている。助郷文書では、下海瀬村は中山道軽井沢宿の当分助郷の年季請を命ぜられ、1820(文政3)年塩名田・八幡両宿助郷、さらに1864(元治元)年追分・沓掛両宿助郷の負担がかかるなど負担の加重に苦しんでいたことも判明する。この他、貯穀・救恤・水利・普請・金融・寺社・民俗・家関係の文書も存在する。 |
評価選別等スケジュール | |
追加受入情報 | |
整理方法 | |
利用条件 | |
使用条件 | |
使用言語 | JAPANESE |
物的特徴及び技術要件 | |
検索手段 | 『史料館所蔵史料目録』第24集(1976年) |
原本の所在 | |
利用可能な代替方式 | |
関連資料 | 下海瀬村年番名主の1人である「信濃国佐久郡下海瀬村相馬家文書」寄託と「長野県佐久郡旧下海瀬村引継文書」(当館マイクロ収集、F7405 F7501)がある。このほか、土屋久寿弥太氏宅には当館が譲渡を受けたもの以外の史料が所蔵されており、その史料については、当館で写真撮影し、閲覧用紙焼本(請求記号CP2)を作成している。 |
出版物 | |
注記 | |
収蔵名称 | 国文学研究資料館(歴史資料) |
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