【摂津国大坂玉水町加嶋屋長田家文書】
識別記号 ac1951012
資料記号 26L
標題 摂津国大坂玉水町加嶋屋長田家文書
年代 1688年~1892年
主年代
年代注記 1688‐1703年頃(元禄期)-1892(明治25)年
記述レベル fonds
書架延長/数量 8m/13985点
物的状態注記 1万3985点(5169通、386冊、74綴、8355枚、1鋪)
出所・作成 長田家
履歴 長田家の初代作兵衛は、堺で商家となり、1626(寛永3)年29才の時に大坂に移り、南本町加嶋屋某を頼み居住したという。寛文初期に業をその子源助に譲る(以後、長田家の歴代当主は作兵衛を通称とした)。2代重信(幼名源助)は業を改め、北浜五歩一町に移住、舟町長田屋某の女を娶るとあるが生業は不明である。3代作兵衛は1688(貞享5)年19才の時、父重信の死跡を嗣ぎ、この時点から加嶋屋の屋号を名乗ったという。1708(宝永5)年39才で没したため、弟辰之助が相続して作兵衛を称した。同人もまた翌年出家遁世したので、養子茂兵衛を迎えるが、1712(正徳2)年42才で没したため、幼少より仏門に入った道元の弟政調が還俗して4代作兵衛を称し、これより長田姓を名乗ったという。当時の作兵衛の営業の実態は不詳であるが、堂島において加賀蔵の蔵名前を持つ米仲買、米方両替がその主業であったと推測される。5代政直は河内国丹北郡住道村野口家2代次郎右衛門の男で、1733(享保18)年38才で政調の没後の跡を嗣いだ。6代政信は紀州和歌山安田長兵衛元喬の男で、1759(宝暦9)年家督を嗣いでいる。加嶋屋の基礎は、この政調・政直・政信の三代によって固められた。長田家は政調の代1729(享保14)年、玉水町に間口6間半の家屋敷を購入して名実共に大坂町人となるが、政直の代には1750(寛延3)年に四軒町、1758(宝暦8)年に船町、さらに政信の代に近江町・幸町・布屋町・本天満町などにも掛屋敷を、1772(明和9)年には養子作五郎のために船町に、1777(安永6)年には土佐堀壱町目、江戸堀三丁目などで大金を投じて広い屋敷を買集めていることから、その盛況ぶりを窺うことができる。そして1783(天明3)年大川町に3か所の屋敷を購入し、玉水町から移転(年次は不明)して本拠とし、以来、8代政雍(鴻池屋五郎兵衛家から養子入)、9代政達(京都三井八郎次郎高英六男養子入)、10代政略と四代90余年にわたって大川町加嶋屋としてその豪勢を誇った。1867(慶応3)年10月の政権奉還後に樹立された新政府は、同年12月京都に金穀出納所を設けて当面急務である会計基立金300万両の徴募に当たったが、新政府の大坂財界に対する期待は大きく、翌1868(慶応4)年2月、山中・広岡・長田を初めとする大坂の豪商15名は、会計御基金御用掛を命ぜられ、三家は率先して各5500両宛を上納している。以後も長田家は新政府に対し様々な調達金を上納しながら、同年5月に大坂での新政府発行の太政官札融通機関である商法司判事、同年8月御東行につき金穀出納取締と随行道中出納事務、1869(明治2)年6月会計官より通商司為替会社并貸附方総頭取、同年8月中之島通商司為替会社発行金札朱印掛、同年11月民部省より通商会社頭取などに任ぜられている。また1870(明治3)年5月から翌年12月まで大阪府東大組大年寄を勤めている。さらに1867(慶応3)年12月の兵庫開港に先立って、同年6月幕府は大坂の豪商20名に対し兵庫商社設立を命じ、長田作兵衛は商社頭取に任じられている。1868(明治元)年5月の銀目廃止令は、大坂の両替商の閉店・倒産を続出させたといわれるが、長田家ではその営業上、具体的にいかなる変容があったか詳かではない。1870(明治3)年頃から兵部省(のち陸軍省)御為替方として官金出納御用を勤め、高松・熊本に出張所を設けている。さらに廃藩置県後は豊岡県・飾磨県掛屋、香川県為替方と県貢納金及び公金受払業務を引請けている。このように官庁・府県為替方として旧来の業務の延長線上での発展を図りながら、長田家は1870(明治3)年鴻池・広岡家と共同で貿易商社尽力組を起こし、翌年には平瀬家(千草屋)・長田作五郎と三家共同出資で堀江南通4丁目に長瀬与三吉名義の両替貸附会社を開業、さらに六海商社を下部組織とする蓬莱社(社長は後藤象二郎)に、大坂の鴻池・和田(辰巳屋)・高木(平野屋)・石崎(米屋)などの諸家と共に参加して府県為替方業務の拡大を図っている。長田家単独の企業としては、巨川会社・長田組商社を設立し、金融業や荷問屋類似の物産商社を営んでいる。また、明治初年の水戸・上田・丸亀藩の物産会所に関係し、特に丸亀には出張所を設け、廃藩置県後は丸亀商社に改組してその運営に当たっている。 以上のように官庁・府県為替方へと進出して、難関を切り抜けたかに見えた長田家も、1873(明治6)年4月陸軍省よりの預り金即時上納の下命、作五郎の豊岡県よりの預り金流用が表沙汰になるに及んで一挙に苦境に立たされた。官金上納の滞りによって閉店を余儀なくされた長田家は、同年には手代一同に暇を出し、翌年改めて別家手代9名の再勤を得て官私負債の償却に奔走することになる。官金負債による挫折後、長田家は1878−1879(明治11−12)年にかけて、兵庫県西宮用達会社と提携して大坂出張所を設け、株式組織の荷問屋を開業し、広島・宇和島との交易を行い、また大川町に加嶋組商社を設けて鹿児島県下の大嶋砂糖の交易に着手したようである。が、その後の経緯は未詳である。
(関係地)摂津国大坂三郷北組玉水町‐摂津国大坂西大組玉水町‐大阪市西区土佐堀通[現在]
(主題)入替両替商;肥後熊本藩蔵元;東大組大年寄‐兵庫商社頭取‐兵部省(陸軍省)為替方‐府県為替方
(役職等)入替両替商;肥後熊本藩蔵元;東大組大年寄‐兵庫商社頭取‐兵部省(陸軍省)為替方‐府県為替方
伝来 1951年度に旧三井文庫より譲渡を受ける。それまでの経緯は、1893(明治26)年に大阪三井銀行支店倉庫に封印のまま抵当流れとなっていたが、1895(明治28)年に三井同族会へ分配され、その残部が三井文庫に収蔵された。
入手源 旧三井文庫
範囲と内容 本文書群は目録によれば、(1)幕府御用、(2)大名御用、(3)旗本御用、(4)堂上・寺社方、(5)堂島浜方、(6)諸商用、(7)官省・府県方御用、(8)諸商社・会社、(9)藩債処分、(10)官私負債事件、(11)店政、(12)家方、(13)家政とに大別されている。(1)幕府御用関係では、御用金、諸差出金、御用金掛屋、引替御用、公儀御貸附銀、兵庫商社、大坂御役方御用関係がある。(2)大名御用関係では、江戸中期以降、長田家が金主として関係した藩は60藩に及ぶ。その関与に至る実情は各藩により異なるが、新興商人としての加嶋屋が当時最大の商業都市であった大坂の実力者商人層へ仲間入りする機会を大名御用の中に志向したことを窺うことができる。しかも長田家の大名御用の内容が、当時最大の商品であった米その他の蔵物を引当とする貸附であったことが重要である。したがって長田家が一般には危険性が高い大名貸で富を築いたのも、同家が一般の大坂本両替と異なり上記の入替両替を主業としたことに起因していよう。(3)旗本御用関係では、11氏の旗本とその他の武家の借用金証文が主である。(4)堂上・寺社方に関して一条家、有栖川宮御貸附、熊野三山御貸附の証文類がある。(5)堂嶋浜方関係では、堂島浜営業株の切替や受取、米切手・先納相印・切手入替など米方両替、蔵米売支配に関するものである。(6)諸商用関係では、本店・船町店の店方勘定、両替業務に関わる手形のほか、貸附銀証文や一件書類がまとまっている。(7)官省・府県方御用関係では、会計官(局)御用、陸軍省為替方、府県為替方に関するものがある。(8)諸商社・会社関係では、為替会社・通商会社、水戸・上田・丸亀諸藩物産方、蓬莱社・六海商社・長田組商社・巨川会社・内外用達会社出張所・加嶋組大嶋産物商社などに関するものである。(9)藩債処分関係がまとまっており、処分方針の確定した1872(明治5)年の「旧諸藩貸附金銀書抜」、翌年の処分方法確定後の「新旧公債高書上控」によって、その全貌が把握できる。(10)官私負債事件では、官(公)金負債、丸亀商社をはじめとする私債、官私負債調、不動産・動産処分関係がある。特に明治11年の最終的な還納処分決定に至る6年間、所管庁の陸軍省・大阪府・大蔵省と長田家間の嘆願・指令書などがまとまっている。(11)店制関係では、「両替商法之覚」「店方諸事倹約取締之儀口達之覚」「奥向店方諸向倹約取締之覚」をはじめ、奉公人、給銀、褒賞、出入人、助成銀に関するものがある。(12)家方関係では、居屋敷・別荘、1729(享保14)年以降の屋敷沽券、掛屋敷、小嶋(摂州西成郡)・上田(摂州武庫郡)新田、道具に関するものがある。(13)家政関係では、家法、相続・冠婚葬祭、役職、明治期の日記・記録類、家計、諸芸、信仰、奥向奉公人、奥向出入人、分家、別家、親族、縁故、家政建直に関するものである。
評価選別等スケジュール
追加受入情報
整理方法
利用条件
使用条件
使用言語 JAPANESE
物的特徴及び技術要件
検索手段 『史料館所蔵史料目録』第14集(1968年)
原本の所在
利用可能な代替方式 尼崎市立地域研究史料館が兵庫県関係文書を撮影している 。
関連資料
出版物
注記
収蔵名称 国文学研究資料館(歴史資料)

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