識別記号 | ac1951014 |
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資料記号 | 26N |
標題 | 山城国葛野郡嵯峨天龍寺塔頭臨川寺文書||The ancient documents of Tenryuji, TACCHU, and Rinsenji of Saga, Kadono district, the province of Yamashiro |
年代 | 1349年~1903年 |
主年代 | |
年代注記 | 1349(貞和5)年-1903(明治36)年 |
記述レベル | fonds |
書架延長/数量 | 2m/695点 |
物的状態注記 | |
出所・作成 | 臨川寺 |
履歴 | 臨川寺は、早世した後醍醐天皇皇子世良親王の遺命により建立されたが、1335(建武2)年、後醍醐天皇の命により、夢窓国師を開山として、霊亀山臨川禅寺と改められた。その後、同じく夢窓国師によって天龍寺が創建され、五山十刹の制が定められると、臨川寺は十刹の第2位となり、天龍寺派に属した。現在は、天龍寺の境外塔頭として位置付けられる。境外塔頭には他に金剛院・宝寿院がある。なお、天龍寺の境内塔頭には、現在まで続くものとして寿寧院・等観院・松巌院寺・慈済院・三秀院・妙智院・永明院・宝巌院・弘源寺がある。 こうした禅宗寺院の組織のあり方に規定され、江戸時代、天龍寺文書は、輪番制により共同管理され、各塔頭文書は、それぞれ塔頭において管理されていたが、臨川寺文書の場合は、1887(明治20)年に天龍寺存籍僧侶による輪住制に移行した際に天龍寺に移された可能性がある。当館所蔵の臨川寺文書はそうした文書が同寺より流出したものと見られる。よって、臨川寺文書群は、臨川寺、天龍寺、そして他の塔頭文書群から構成される。 なお、天龍寺の寺領は、豊臣秀吉によって1720石が与えられ、徳川家康も1614(慶長19)年に黒印状をもって同石を与えた。ここには臨川寺領74石、他の塔頭1127石が含まれた。1711(正徳元)年「天龍常住并諸塔頭両村分高括牒」(史料番号23)によれば、所領は寺廻村、川端村、山本村、小溝村、上嵯峨村、池浦村、生田村、北山村、馬場村、樋爪村にあった。 (関係地)山城国葛野郡嵯峨‐京都府京都市右京区嵯峨天龍寺造路町[現在] (主題)― (役職等)― |
伝来 | 1951年度に旧三井文庫保管のものを譲渡。 |
入手源 | 旧三井文庫 |
範囲と内容 | 本文書群には、発生母体が異なる文書が混在しており、少なくとも(1)天龍寺文書、(2)臨川寺文書、(3)寿寧院・弘源寺などの塔頭関係文書からなるとみられる。また、37点の中世文書が含まれ、内容的には「臨川寺山門再興造営之帳」など臨川寺に関するものが多い。中世文書については田中浩司「国文学研究資料館史料館所蔵『臨川寺文書』について」(『古文書研究』35号)が目録を示している。(1)天龍寺文書には、天龍寺そのものに関するものと、塔頭全体に関わる文書、京都五山第1位の寺としての機能に関わる文書がある。具体的には塔頭を含めた寺院組織、寺院経営、寺領支配に関するものが主要であり、寺院の由緒や夢窓国師の年忌に関係するものも一部見られる。(2)臨川寺文書も組織・経営に関するものが多い。ことに寺領支配に関するものが多数みられる。(3)その他の塔頭文書では、寿寧院・弘源寺などのものが比較的多く見られるが、いずれにしても天龍寺と塔頭との関係、寺領支配における天龍寺と塔頭との関係などの解明が課題である。 |
評価選別等スケジュール | ― |
追加受入情報 | ― |
整理方法 | これまでの文書群名は「山城国葛野郡嵯峨臨川寺文書」。 |
利用条件 | ― |
使用条件 | ― |
使用言語 | JAPANESE |
物的特徴及び技術要件 | ― |
検索手段 | 『史料館所蔵史料目録』第63集(1996年) |
原本の所在 | ― |
利用可能な代替方式 | ― |
関連資料 | 天龍寺文書(『京都府古文書等緊急調査報告書 天龍寺古文書目録』、1980年) |
出版物 | ― |
注記 | |
収蔵名称 | 国文学研究資料館(歴史資料) |
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