識別記号 | ac1951023 |
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資料記号 | 26W |
標題 | 摂津国八部郡兵庫津北風家文書||KITAKAZE family papers and collections of Hyogotsu, Yatabe district, the province of Settsu |
年代 | 1785年~1895年 |
主年代 | |
年代注記 | 1785(天明5)年-1895(明治28)年 |
記述レベル | fonds |
書架延長/数量 | .2m/10点 |
物的状態注記 | 10冊 |
出所・作成 | 北風家 |
履歴 | 北風家はもと白藤氏と称していたが、建武年間(1334−1338年)新田義貞に従って足利尊氏の軍を兵庫に攻め、北風に乗じて敵船を焼き、大勝を得たので義貞は北風の烈々たるがごとしと軍忠状を与え、白藤を喜多風と改め、のち北風となった。一族は繁栄して兵庫に住み、7家に分かれる。北風彦太郎の代、寛永年間(1624−1644年)金沢藩が米1万石を大坂に回送した時、大坂の淀屋个庵に売捌きを依頼したが、个庵と親交のあった北風一族に渡海を支配させた。その後北風家は兵庫随一の問屋となり、北風荘右衛門は北浜鍛冶屋町に住み、北前問屋として米穀・肥料を販売し文化期以降(1804年以降)富を蓄積した。その後、1819(文政2)年蝦夷御用取扱人となり、天保年間(1830−1844年)には金穀をもって救民に宛て、新田開発をも行った。次の北風正造も幕末・明治の兵庫の代表的豪商として活躍する。彼は山城国紀伊郡竹田村(現京都市伏見区)の郷士長谷川景則の次男で、母は有栖川宮家の老女であった登士子。1853(嘉永6)年19才で諸問屋北風家の婿養子になって相続し、荘右衛門貞忠と改名。幕府は兵庫津の集散機能の発展と北風家の富に着目して箱館産物会所の用達兼生産捌方取締、開港時は幕府商社肝煎を命じて御用金を課すが、かれは実家の影響で密かに勤王派を援助した。しかし維新後は積極的に政府に協力し、さらに私財を投じて民兵の兵庫隊を組織して治安維持を図ったり、庶民教育の明親館設立にも尽力し、会計官商法司判事(この時正造と改名)・県出納掛・通商為替会社頭取などを歴任し、1873(明治6)年公職を辞しても兵庫新川開鑿事業や米商会社・七十三銀行・商法会議所などの創立に尽力するも、家業は衰退し1885(明治18)年破産、同28年に没すると絶家した。一方、北風六右衛門家は数次名主役を勤めた北風同門中の名家で、醸酢でも有名で、『摂陽落穂集』に「兵庫の津北風六右衛門方にて作れる千とせ酢といへるは、日本第一の佳味にして関東に献じ上る、其の酢の事は諸人よく知る所なり」とある。『神戸市史』別録1(1922年)、『国史大辞典』(吉川弘文館)。 (関係地)摂津国八部郡兵庫津北浜鍛冶屋町‐兵庫県八部郡兵庫津北組鍛冶屋町‐八部郡神戸区鍛冶屋町‐神戸市鍛冶屋町‐兵庫区鍛冶屋町[現在] (主題)廻船問屋;諸問屋年寄役 (役職等)廻船問屋;諸問屋年寄役 |
伝来 | 1951年度に旧三井文庫保管のものを譲渡。 |
入手源 | 旧三井文庫 |
範囲と内容 | 全10冊と少量である。北風六右衛門が諸問屋年寄役を勤めた時の1785(天明5)年の「諸問屋会所日記」(1冊)がある。北風家と同じ兵庫で廻船業を営み、蝦夷交易で活躍した高田屋嘉兵衛との取引を示す「高田嘉兵衛御物仕切扣」(1冊)は、1805(文化2)年から1875(明治8)年に至るものである。また、1836(天保7)年「御用御廻米積出送状控」(7冊)があり、北前問屋としての具体的な取引状況が判る。また、「証券帳」(1冊)は北風正造が破産してから没するまでの年代、すなわち1885(明治18)年から1895(明治28)年までの借金証文の控である。その内容は、屋敷や所有証券を抵当にしている場合もあり、近隣町内や同族の個人から借用しているばかりでなく、金沢北陸銀行・第七十三銀行・安田銀行・第一国立銀行・大阪倉庫会社兵庫支店・大阪融通会社兵庫支店などからも借用している。 |
評価選別等スケジュール | ― |
追加受入情報 | ― |
整理方法 | ― |
利用条件 | ― |
使用条件 | ― |
使用言語 | JAPANESE |
物的特徴及び技術要件 | ― |
検索手段 | 史料仮目録B |
原本の所在 | ― |
利用可能な代替方式 | ― |
関連資料 | ― |
出版物 | ― |
注記 | |
収蔵名称 | 国文学研究資料館(歴史資料) |
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