【和泉国日根郡佐野村食野家文書||MESHINO family papers, Sano village, Hine district, the province of Izumi】
識別記号 ac1955001
資料記号 30A
標題 和泉国日根郡佐野村食野家文書||MESHINO family papers, Sano village, Hine district, the province of Izumi
年代 1522年~1909年
主年代
年代注記 1522(大永2)年-1909(明治42)年
記述レベル fonds
書架延長/数量 2m/700点
物的状態注記 約700点、未整理1棚
出所・作成 食野家
履歴 佐野村は現泉佐野市の北西端に位置し、北は大阪湾に面する大村で、村高は四郡高附によれば1645(正保2)年3486石余、「天保郷帳」2813石余、『旧高旧領取調帳』では2942石余である(角川地名辞典)。大阪湾に面していたので廻船問屋・干鰯商・魚商人なども多数存在し、佐野浦は和泉九カ浦の中で最も繁栄した。特に食野家と唐金家は廻船業と大名貸で財をなしたことで有名である。食野家の初代多右衛門正久は、大饗二郎左衛門正虎から分かれ、故があって大饗の姓を食と改め、武を捨てて商家となったと伝えられている。食野は初期の文書では「めし」「食」であって、本文書群では元禄−享保期(1688‐1734年)頃から「食野」である。食野家の存在を示す最も古い文書は売券で、1587(天正15)年8月19日付(仮番号81)では、左京・快算・西田院の3名が80歩2筆、計160歩の屋敷地を直銭米3石で「めし左太郎」に売却しており、1618(元和4)年5月28日付(仮番号81)では、十良大夫が1畝16歩の屋敷地を92匁で「めし二良左衛門尉」に売却していることなどから、天正年間から佐野に住居し、土地集積を行っていたことがわかる。食野家は17世紀後半には全国市場に進出して活躍するが、その活動資金がどのように蓄積されたかについては未詳である。全盛期の主業は廻船業と大名貸で、この富を背景にして1722(享保7)年に大坂春日出新田を入手し、さらに西道頓堀付近、幸町、堀江一帯にわたって家屋倉庫を所有している。本拠である佐野においても富を象徴する豪壮な邸宅と海岸に沿う道路の両側に「いろは四十八蔵」を建てた(26庫が現存している)。一方で岸和田藩との関係も密接で、藩札の札元に任命されているし、藩財政を支える上で重要な役割を果している。幕末になると食野家は廻船業の停滞と、大名貸の焦げ付きが原因となって急速に衰退する。
(関係地)和泉国日根郡佐野村‐岸和田県日根郡佐野村‐堺県日根郡佐野村‐大阪府日根郡佐野村‐泉南郡佐野村‐泉佐野市佐野[現在]
(主題)廻船問屋;大名貸
(役職等)廻船問屋;大名貸
伝来 1955年度に古書店より購入。
入手源 古書店
範囲と内容 廻船業である食野家文書であるが、(1)大名貸を中心とした金融関係文書と(2)食野家の私文書で構成される。(1)食野家文書は中世末期から近世初期の売券があることで、近世以降が主である史料館収蔵史料の中でも、特異な存在となっている。その売券は1522(大永2)年を初見に約30点あり、食野家宛以外の売券の存在については今後の検討を待たなければならない。大名御用としての大名貸証文は関東以南の約20藩分があり、それに関連して藩債処分に関わる文書もある。また食野家と岸和田藩との関係を示す御用金、扶持方達書、合力米加増達書、泉州岸和田領新田諸役免許状などもある。(2)1632(寛永9)年を初見とする奉公人請状のほか、手代誓詞、相続願、食野家人員帳、家普請願書、病気見舞状、結納金請取、由緒・履歴書類がある。
評価選別等スケジュール
追加受入情報
整理方法
利用条件
使用条件
使用言語 JAPANESE
物的特徴及び技術要件
検索手段 史料仮目録A
原本の所在
利用可能な代替方式
関連資料
出版物 『食野家関係史料』第1−3集(佐野史談会、1950−1952年)に一部収録されている。また『泉佐野市史』(1958年)巻末史料編に収録されている。その約半数は、中世末から近世初頭(1522年−1674年、大永5−慶安4年)にかけての売券、置文、畠地譲状、年季奉公取替銀証文類(32点)である。
注記
収蔵名称 国文学研究資料館(歴史資料)

Copyright © National Institute of Japanese Literature All Rights Reserved.