【三河国八名郡乗本村菅沼家文書】
識別記号 ac1957005
資料記号 32E・58A
標題 三河国八名郡乗本村菅沼家文書
年代 1658年~1925年
主年代
年代注記 万治元年(1658)―大正14年(1925)
記述レベル collection
書架延長/数量 6m/1683点
物的状態注記 1683点
出所・作成 菅沼家
履歴 【『総覧』No.270】菅沼家の初代三郎左衛門定昌は,戦国末期の長篠城主菅沼新九郎正貞の従兄弟にあたると伝えられ,天正元年(1573)長篠落城のあと乗本に移住して「乗本村七村大名主」を勤めたという.江戸時代の乗本村は,菅沼家が居所とした小川のほか,乗本(本郷)・蔵平・大平・久間・市川・栗衣の7組から構成され,乗本と小川の両組に名主が置かれて,小川組名主が乗本村7組の触元の地位を占めるならわしであった.菅沼家は2代定常のとき名主職を分家金十郎家に譲り,その後は享保―安永期に年番組頭役を勤めた形跡があるのと,安永・天明期に一時期名主役を勤めていること,それに幕末期に中泉代官所から名主後見を命ぜられていることを除いて,あまり村行政の前面には出なかった. 菅沼家は17世紀中ごろの正保期,5代定正が豊川に鵜飼船と呼ばれる新型船を導入して奥三河と吉田を結ぶ回漕業を開始し,以後,屋号「為屋」の名で盛んな商業活動を展開していく.回漕業は明治以降も引き継がれ,大正6年(1917)に支配人に全権を委譲するまで続いている.また所持地も18世紀後半には持高50石を越し,明治21年(1888)の時点では乗本・長篠村地内で田畑8町歩余,山林・宅地その他が24町以上の規模となっている. 本文書群には菅沼正兵衛家や菅沼耕兵衛家など,分家・親類の史料が混入している.菅沼正兵衛家は本家八左衛門家の親類で,幕末期に名主を勤め,本家と同じ屋号「為屋」を名乗って菅沼家の林産部門を受け持ったと見られる.明治2年(1869)に三河県から商法掛に任ぜられ,のち八名郡蚕種世話役,蚕種製造組合「豊川組」頭取などを勤めている.菅沼耕兵衛家は分家で,菅沼正兵衛のあとを受けて幕末から明治初年に乗本村名主を勤めている.明治2年(1869)には三河県から酒造取締役を命じられ,のち八名郡副郡長,第九中学区取締,八名郡養蚕世話役,大区長などを歴任している.【『目録』39集「乗本村の沿革と菅沼家の小川村定住の経緯」】(以下,引用史料のうち,史料館所蔵分は〔〕を付した史料番号のみを記し,豊橋市美術博物館所蔵分には「美博本〔FOO〕」とフィルム史料番号を示してある.) 菅沼家の居村である乗本村は,愛知県の東端,静岡県境に接した八名郡(町村合併の進行により昭和三一年消滅,現在南設楽郡鳳来町乗本)の山間部にあり,豊橋市内で三河湾に注ぐ豊川(旧吉田川)が,上流で寒狭川(北設楽郡設楽町の寒狭山に発する本谷川を最上流とする)と,鳳来町の北部山地から発する宇連川(一名三輪川)とが合流する牛ケ淵の左岸に位置し,右岸の旧設楽郡長篠村(現鳳来町長篠)と対峙する. この宇連川左岸の山間地帯には,数条の支流とともに狭い平坦部がつくられ,そこに古くから集落が形成されたとみられる.江戸時代の乗本村は菅沼家が居所とした小川のほか,乗本(本郷)・蔵平・大平・久問・市川・栗衣(くりぎぬ)の七組から構成されていた.もっとも近世初頭には栗衣を欠き,小川は宇川(鵜川)・市川は卒川と呼ばれ,六組はそれぞれ村を称しつつ,行政上乗本村として纏められていた.集落形成の時期などは詳らかでない.『八名郡誌』は,三河国建置の際の七郷(和名類聚抄)のうちの服部郷を,のちの乗本・大野.山吉田周辺の地域に擬しているが,断定は困難である.その後鎌倉期前後に宇利庄・小野田庄の存在が知られ,郡司としては大伴氏の系譜をひく伴氏一族が勢力を張っていたとされる.戦国期になると各地に土豪が現われて小規模ながら武士団を結成し始めたという.就中,長篠の菅沼氏.作手の奥平氏・田峰の菅沼氏が山家三方と呼ばれる国人衆に成長してきたが,同地方は南からの今川氏,西からの松平・織田氏,北方からの武田氏などの勢力の接点となって争奪がくり返されたから,彼らはそれらの圧力の下に次々と従属を替え,家の保持に努めなければならなかった. 菅沼家の先祖が拠ったとされる長篠城は,永正五年(一五〇八)今川氏親の部将菅沼元成が築き,五代がここに拠ったとあるから,当時は今川氏の被官であったとみられる.永禄三年(一五六〇)桶狭間の戦で今川義元が敗死すると,長篠城は徳川(松平)氏に従ったが,元亀二年(一五七一)離反して武田氏に服したため,天正元年(一五七三)七月,家康は長篠を攻め,同九月落城,家康の部将松平景忠が城番となったという.菅沼氏の同族で野田菅沼の系統をひき,のち三河国新城の領主となった旗本菅沼家(七千石)の「家譜」 (新城市教育委員会編『新城市誌資料X』)には,天正元年の家康による長篠城攻略の模様を次のように伝えている.〔入力者注:もと字の級数を下げた訓点は,[](半角の角カッコ)に示した.左右の訓点が同時に出現したばあい,右→左の順とし,左右の区切りに|(半角パイプ,縦棒)を用いた.〕  一,三州長篠[ノ]城[ハ]菅沼新九郎正貞代々[ノ]居処也,信玄逝去[]事世上有[二]其沙汰[一]依[テ|レ]之勝頼為[ニ|レ]要害[ノ]室賀入道小泉等為[シテ|レ]加勢被[シテ|レ]籠  一,天正元年七月廿日家康公催[レ]軍兵[ヲ]攻[二]長篠城[一]以[レ]火矢射[ル|レ]之故[ニ]城中焼亡[ス]城兵[モ]亦太[タ]拒[レ]之家康公引[レ]軍久間[ノ]中山築[レ]附城酒井左衛門尉忠次松平上野介庸忠菅沼新八郎定盈籠置[ヲカル] 当時の長篠城主は新九郎正貞とあり,七月二〇目の攻撃で城中焼亡とあるが,城兵の抵抗も強く,家康は一旦軍勢をひき,久間に城を築き酒井忠次等を居らしめたという.この久間を乗本七郷のうちの久間とすれば,長篠城をめぐる攻防の渦中に乗本村も捲き込まれていたことになる. 乗本村菅沼家の初代三郎左衛門定昌は,この長篠城主新九郎正貞の従兄弟に当ると伝えられ,長篠落城の年,宇川の庄官矢頭七郎兵衛の招きによぞ同碧卜居し,姦氏の江戸移住後「乗本村七村大名主」を勤めたという(「菅沼系図」美博本,〔F一〕・「小川邑菅沼家記」同上〔F二〕). 初代定昌は元和二年(一六一六)に没し,矢頭七郎兵衛の娘を妻とした嫡子七郎左衛門定常が家を嗣いだが,定常は長女に信州座光寺浪人福田嘉平次(常好)なる者を迎えて智養子とし,別家をたててこれに名主職を譲った.これが金十郎家と呼ばれる名主家の創始である.定常はまた末子定政にも別家させて乗本六郷の氏神八王子大権現諏訪大明神若宮八幡宮を司る神主家と定めている.これらは菅沼家が移住地で早急の間に勢力を定着させていった経過を窺わせるものである(後掲「菅沼家系図」参照).
(関係地)三河国八名郡乗本村‐愛知県十四大区一小区乗本村‐八名郡舟着村乗本‐新城町乗本‐南設楽郡鳳来町乗本[現在]
(主題)吉田藩領(池田氏)---領主, 1590-1600|徳川氏領---領主, 1600-1603|幕府領---領主, 1603-1868
(役職等)名主‐組頭;回漕業
伝来 32Eは1957年度に古書店から購入した.58Aは1983年に原蔵者から譲渡された.Suganuma Family Papers(32E) were purchased by The Shiryokan (Dept. of Historical Documents, Ministory of Education, Science and Culture) on 1957FY. Suganuma Family Papers(58A) were given to The Shiryokan (Dept. of Historical Documents, NIJL) by Mr. Suganuma, Keiichiro on 1983.
入手源 32Eは古書店,58Aは原蔵者.
範囲と内容 本文書群は菅沼本家(八左衛門家)に伝来した文書群と考えられるが,分家・親類の史料を大量に含んでいるのが特徴である.それを勘案すると,文書群構成は,(1)乗本村文書,(2)菅沼家の家文書,(3)分家・親類文書,からなると考えられる. (1)は,ほとんどが18世紀中頃以降の近世村方文書で,小川組のみに関わる文書と乗本村全体に関わる文書とが含まれる.貢租,土地,戸口など各分野にわたって残っているが,村方文書としてまとまっているとはいえない.菅沼本家が名主・組頭あるいは名主後見を勤めたことに由来するものと,分家・親類が名主職を勤めたことに由来するものとが混在すると考えられるが,必ずしも本家文書と分家・親類文書とを明確に区分できない. (2)は量的にも質的にも本文書群の中心をなすものといってよい.回漕業をはじめとして,林産業,茶取引,貸金,酒造,土地経営などに関する帳簿や証文類が近世後期から明治期のものを主体に豊富に残っている.また家譜史料や宿村助成などに関する史料も含まれる. (3)の主なものは,菅沼正蔵家,菅沼周助家,菅沼正兵衛家,菅沼耕兵衛家の文書である.正蔵家と周助家はともに10代定基からの分家で,文書は証文類が中心である.正兵衛家と耕兵衛家については「歴史」の項に記したとおり,明治以降にさまざまな役職に就任しており,関係史料が断片的ながら本文書群に含まれている.
評価選別等スケジュール
追加受入情報 追加はないと思われる.No additions are expected.
整理方法 【菅沼家文書の分類と配列】 既述の通り,江戸時代の菅沼家は豊川舟運における問屋営業を含む回漕業・商業活動を営む一方で土地を集積し,また山林地主としての経営を行なうなど,幅広い経営を行なっているが,残存の史料は年歴の長さと経営内容に比して余り多いとは云えない.従って当館所蔵史料の欠を補うべくマイクロ・フイルムによって収録した豊橋市美術博物館所蔵史料の一部,および愛知大学総合郷土研究所所蔵史料の一部は,本来所蔵機関別に掲載すべきであるが,検索・利用上の便宜を考慮して,史料館所蔵史料の中に混載した.目録中,史料表題の上欄に(T)とあるのは豊橋市美術博物館所蔵分,(A)とあるのは愛知大学総合郷土研究所所蔵分である. 菅沼家文書の構成は,近世初頭に名主役を一族の金十郎家に譲ったあと,享保―安永期に小川組の組頭を勤めていた形跡があるが,組頭役は複数家の年番であったとみえ,小川組に関する村方史料は断片的である.安永末年以後十数年間は名主役を当家が勤めたものの,寛政以後は分家の管掌するところとなり,若干の乗本村文書が含まれているが,本文書の主体は菅沼家の家文書である.なお家文書中には幕末に菅沼家の後見なり経営の実務に当ったと思われる分家正蔵・正兵衛・耕兵衛家の文書が散見され,本・分家の経営の未分離を窺わせるが,本目録の分類に当っては,大項目に菅沼家,分家・親類,乗本村の三項を立てて区分した. 以下,各大項目を中・小項目に分ち配列した史料群のうち,問題点・補注を要するものについて,各項の記述のなかで若干触れた.
利用条件 調査研究目的であれば資料群は公開されている.一部の資料は,代替資料での閲覧となることもある.Collection is open for research.
使用条件 複製,出版,引用,その他の使用のためのすべての請求は,国文学研究資料館事業部の資料閲覧サービスの長へ書面にて提出されなければならない.同意は,物的品目の所有者としての国文学研究資料館へ与えられ,著作権所有者からの許可を含むか含意することは意図されない.そのような許可は著作権所有者から得られなければならない.All requests to reproduce, publish, quote from or otherwise use collection materials must be submitted in writing to the Head of Public Services, National Institute of Japanese Literature, NIHu, Tokyo. Consent is given on behalf of The NIJL as the owner of the physical items and is not intended to include or imply permission from the copyright owner. Such permission must be obtained from the copyright owner. 制限はまた,資料原本の電子的表現へも適用される.電子ファイルの使用は,調査研究および教育の目的に制限される.Restrictions also apply to digital representations of the original materials. Use of digital files is restricted toresearch and educational purposes.
使用言語 {@scriptode='Jpan' langcode='Jpn'}日本語Japanese|{@scriptcode='Hani' langcode='jpn'}日本語‐漢字 Japanese, Han|{@scriptcode="Hrkt" langcode="jpn"}日本語‐平仮名片仮名 Japanese, Hiragana and Katakana
物的特徴及び技術要件
検索手段 国文学研究資料館史料館.『史料館所蔵史料目録』.第39集,東京:国文学研究資料館内国立史料館,1984年.
原本の所在
利用可能な代替方式 本資料群には代替形式は存在しない.(原本,マイクロ収集資料とも.)There are no alternate forms of this collection.
関連資料
出版物
注記
収蔵名称 国文学研究資料館(歴史資料)

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