| 履歴 |
際波村は串・里尾・迫条・大森・鍋倉の小村から構成される大村で、「天保郷帳」では石高1982石余りであった。給知・蔵入地が入組みの村で、給知には給人ごとに置かれた給庄屋の下に畔頭がおり、小都合庄屋が給庄屋以下を統括した。三隅家の由緒についての詳細は不明だが、安永年間以降(1772−1781)から際波村の小都合庄屋を勤めたようで、整理済の史料からは藤左衛門(寛政13−享和3年)、八郎右衛門(文化2−文政2年)、藤助(文化7−9年)、藤左衛門(文政11−天保10年)、祐左衛門(天保13−安政3年)、八五郎(安政3−嘉永6年)、伴右衛門(元治元−明治4年)の名を確認できる。庄屋役の交替(三隅家以外)や、また藤助が大庄屋を勤めた時期もあるようなので、三隅家の役職の変遷・就任時期などについては今後の検討をまちたい。明治期の当主には敏学の名がみえる。
(関係地)長門国厚狭郡際波村‐山口県宇部市際波[現在] (主題)庄屋 (役職等)庄屋
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