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故紙業者より購入した文書群であり出所情報を欠くが、私文書の類が全く見えない点、近世後期に庄屋が頻繁に交代している点、そして、幕末の史料に「会所」といった表記が見られ、それが明治十年代まで続き、戸長役場の史料が見られることなどから、本文書は近世後期から村方が共同管理してきた文書が、戸長役場を経て村役場で保管されてきた可能性が高い。こうした管理方法と関連するものか、庄屋の個人名が帳簿類に記されるケ−スは少なく、「庄屋・年寄」「南津田村会所」などと記される。なお、近世後期の庄屋には梅野五兵衛、速水佐兵衛、忠助、長右衛門といった名前が見える。 同村の支配は近世前期は幕府領であったが、1698(元禄11)年に旗本朽木領となり、陣屋も同村に設けられた。しかし、1834(天保5)年頃再び幕府領となり、信楽代官所の管轄となった。琵琶湖東岸に位置し、新田開発により、津田栄新田が近世後期に開かれた。『旧高旧領取調帳』によれば、村高は110石余である。漁業が盛んであり、持ち舟も多い。また、葭の販売なども見られる。武佐宿へ助郷を勤める。近代になり大津県、1872(明治5)年滋賀県下となる。1889(明治22)年市制町村制の施行により周辺村とともに山岡村を構成した。
(関係地)近江国蒲生郡南津田村‐大津県蒲生郡南津田村‐滋賀県蒲生郡第四区南津田村‐岡山村南津田‐近江八幡市南津田町[現在] (主題)― (役職等)―
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