【近江国蒲生郡西大路村文書(伊藤為之助収集文書のうち)】
識別記号 ac1958023.07
資料記号 33W 37S(7)
標題 近江国蒲生郡西大路村文書(伊藤為之助収集文書のうち)
年代 1803年~1882年
主年代 明治前
年代注記
記述レベル collection
書架延長/数量 /18点
物的状態注記 18冊
出所・作成 西大路村;伊藤為之助。
履歴 文久2年(1862)4月に仁正寺藩主市橋長義によって、仁正寺藩の名称を西大路藩に改称。以来、村名も仁正寺村が西大路村となった。 仁正寺村は天正12年(1584)日野城主蒲生氏郷の伊勢転封後、日野城は豊臣秀次、長束正家の支配を経て、慶長3年(1598)に廃城となり、慶長5年(1600)、関が原合戦後は幕府領となる。日野城廃城後、城内地が荒廃したため、慶長11年(1606)、代官青山孫平は仁正寺村において、新町を起立。起立にあたり、当村の開墾者には1年間の夫役を、他村からの開墾者には3年間の夫役を免除した。元和6年(1620)、越後三条より近江に移封された仁正寺藩主市橋長政は、旧日野城内に藩庁陣屋を設け、江戸期を通じてここを藩の本拠地とした。村高は「寛永高帳」1500石余、「旧高旧領取調帳」1500.385石余で、明治維新まで変わらず。文久2年に藩名の改称により仁正寺村から西大路村となった。幕末期に西大路藩兵の東征に際し、村民の藩士召抱えも相当数に上った。廃藩後は多数の藩士の東京移住により、藩庁舎も京都相国寺塔頭に売却され、藩士屋敷も取り払われ、急激にさびれた。明治7年朝陽学校開校。同13年(1880)の戸数190、人口397。同22年(1889)滋賀県蒲生郡西大路村の大字となる。昭和30年(1955)滋賀県蒲生郡日野町西大路となり、現在に至る。
(関係地)近江国蒲生郡仁正寺村‐近江国蒲生郡西大路村‐西大路県蒲生郡西大路村‐大津県蒲生郡西大路村‐滋賀県蒲生郡西大路村‐滋賀県蒲生郡西大路村西大路‐滋賀県蒲生郡日野町西大路
伝来 1958・1962年度に古書店より購入。
入手源 古書店。
範囲と内容 伊藤為之助収集文書のうち、仮番号228〜245番の文書群である。主に明治前期の史料が多く、その中でも講仕法帳など、講関係の史料がそろっている。その他、明治4年(1871)「西大路村上・下組名面帳」、享和3年(1803)「御分間御絵図御用村方明細御手引控」などがある。
評価選別等スケジュール
追加受入情報
整理方法 仮整理・未整理
利用条件 未整理分については閲覧できない。
使用条件
使用言語 JAPANESE
物的特徴及び技術要件
検索手段 カード目録(ただし、仮整理済分のみ)
原本の所在
利用可能な代替方式
関連資料 伊藤為之助収集文書(fond)の記述を参照。
出版物
注記 これまでの文書群名は「伊藤為之助蒐集史料」。仮番号228〜245番。
収蔵名称 国文学研究資料館(歴史資料)

Copyright © National Institute of Japanese Literature All Rights Reserved.