【甲斐国山梨郡下井尻村井尻家文書】
識別記号 ac1960019
資料記号 35S 39D
標題 甲斐国山梨郡下井尻村井尻家文書
年代 1558年~1958年
主年代 江戸後
年代注記 1558(永禄元)年-1958(昭和33)年
記述レベル fonds
書架延長/数量 10m/4101点
物的状態注記 4101点(839冊、2988通、243綴、19枚、5巻、4鋪、4帖、2袋)
出所・作成 井尻家
履歴 井尻家の初代は武田氏に仕えた佐々木与十郎喜法(のち繁法)。井尻郷に住んで姓を井尻と改め、1558(永禄元)年に川中島で戦死したと伝えられる。3代元繁は1582(天正10)年の武田氏滅亡後、徳川家康の入国の際に起請文に名を列ねて安堵状を授けられており、4代繁満は三河の生まれであるが、1587(天正15)年父死亡のとき幼少のため浪人して井尻郷に住んだといわれる。このような由緒により、井尻氏は18世紀以降、「浪人」(郷士)としての身分を認められている。 下井尻村の村役人としては、元禄期の7代繁致から文化期の11代繁光まで代々名主・長百姓をつとめたが、名主役には1805(文化2)年以降ついておらず、長百姓役も1817(文化14)年に辞してからは再びその職についてないようである。この時期から、かわって名主・長百姓をつとめているのは分家清兵衛(佐々木家)である。12代繁昌は1864(元治元)年から寺子屋を開いている。13代繁宜は明治維新に際し武田浪士として護国隊に加わり、その後、千葉県印旛下埴生南相馬郡役所、山梨県、山梨郡役所につとめ、1901(明治34)年四ヶ村堰普通水利組合会議員、1907(明治40)年日下部村村会議員になっている。また1896(明治29)年には願いにより士族に編入されている。 井尻家の持高は近世には20−40石、1911(明治44)年の所有地は田1万1500坪、畑1万4309坪、宅地7417坪である。小作地経営のほか、近世には柿を江戸に出荷し、酒造ならびに質屋営業も行っている。
(関係地)甲斐国山梨郡下井尻村‐甲府県‐山梨県山梨郡第十二区下井尻村‐山梨県第二十六区日下部村下井尻‐山梨県東山梨郡日下部村下井尻‐山梨県東山梨郡日下部町下井尻‐山梨県山梨市下井尻[現在]
(主題)名主・長百姓;浪人(郷士);地主
(役職等)名主・長百姓;浪人(郷士);地主
伝来 1960年度と1964年度に原蔵者より譲渡。
入手源 原蔵者
範囲と内容 本文書群は、(1)近世下井尻村村方文書、(2)近代下井尻村村政文書、(3)井尻家の家文書、によって構成されると考えられる。 (1)は、18世紀末の寛政期から19世紀初めの文化期頃までのものが圧倒的に多い。井尻家当主が名主をつとめた最後の2代、つまり10代繁房と11代繁光の時代にあたる。土地、貢租、村入用、戸口、治安・訴訟、水利・普請等の一般的な名主文書のほか、甲州道中助郷に関する文書などが含まれている。(2)は、1875(明治8)年に13代繁宜が後屋敷学校の学務掛をつとめたことによる学校関係史料が若干ある。 (3)は本文書群の中ではいちばん多く、a,浪人(郷士)関係、b,経営関係、b,その他に分けられる。A,は本文書群の最も大きな特色をなすもので、「浪人由緒書」「苗字帯刀御免願」「久能山警固奉公願」「浪人諸家守護朱印黒印写」などのほか、維新期の護国隊や明治期の武田旧友会などに関する文書が豊富である。B,としては、近世後期以降の小作地経営や柿商、および質店営業に関する帳簿や証文類などが目立っている。C,はそれ以外の私的な文書と井尻家家族構成員の職業・役職等に関わる文書である。このうち前者としては、相続や冠婚葬祭文書、日記・手帳類、その他多数の書状類などがあり、後者としては、赤十字社関係文書、四か村堰普通水利組合文書、在郷軍人義団文書などが含まれる。
評価選別等スケジュール
追加受入情報
整理方法
利用条件
使用条件
使用言語 JAPANESE
物的特徴及び技術要件
検索手段 『史料館所蔵史料目録』第13集(1967年)
原本の所在
利用可能な代替方式
関連資料 井尻家に若干の文書がある(当館マイクロ収集、F6008)。また下井尻村の近世・近代村方文書として、「甲斐国山梨郡下井尻村依田家文書」(当館所蔵、27D 29A 30E 60A)、「甲斐国山梨郡下井尻村宗門人別帳」(当館所蔵、59C)、「山梨県山梨市下井尻区有文書」(当館寄託、寄託)がある。
出版物
注記
収蔵名称 国文学研究資料館(歴史資料)

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