【山梨県北巨摩郡増富村役場文書||Masutomi village office records, Kita-koma district, Yamanashi prefecture】
識別記号 ac1966013
資料記号 41M
標題 山梨県北巨摩郡増富村役場文書||Masutomi village office records, Kita-koma district, Yamanashi prefecture
年代 1666年~1900年
主年代 明治前
年代注記 1666(寛文6)年-1900(明治33)年
記述レベル fonds
書架延長/数量 6m/469点
物的状態注記 469点
出所・作成 増富村役場
履歴 増富村は、釜無川(富士川上流)の支流塩川の上流地域で、現在の須玉町の北東部半分を占める。近世の地域区分では逸見(へみ)筋に属し、小尾(おび)・比志(ひし)両村がありその中を信州峠に至る穂坂路が通っていた。小尾村は近世初頭には幕府領で、ついで甲府藩領、1724(享保9)年、再び幕府領(甲府代官所)となる。村高は近世初頭で206石、近世中・後期、例えば『旧高旧領取調帳』などでは、340石余であった。『甲斐国志』によって19世紀初頭(文化年間)の村況をみると、戸口は200戸・915人(男485・女430)、馬60となっている。村内に口留番所が置かれていた。比志村の支配も小尾村と同じ経過をたどる。村高は、近世初頭で177石、『旧高旧領取調帳』では、203石余であった。『甲斐国志』によると、戸口は126戸・570人(男282・女288)、馬46、牛20であった。比志村は村内に対立があり、1813(文化10)年から1852(嘉永5)年まで、東西2組にわかれそれぞれ名主を立てていたという(『日本地名大辞典』『増富村誌』)。 明治維新後、小尾・比志村は、1868(明治元)年に市川県、翌1869年に甲府県、1871年に山梨県の管轄となった。大小区制期には、1872(明治5)年に巨摩郡第十二区、1876(明治9)年に山梨県第八区に属し、さらに、1878(明治11)年、巨摩郡の分画により北巨摩郡に属した。この間、1875(明治8)年に小尾・比志両村は合併して増富村が成立した。村の面積は東西2里・南北1里18町であった(『山梨県市郡村誌』)。増富村合併後、史料では、村内の集落の区分を旧小尾村・旧比志村と称しているのをみるが、宮本・塩川・神戸・豊里・御門・黒森・安里・豊富の各組の呼称に定着する。当初の戸長の事務所名称は未詳である。1875(明治8)年の「村事務所」、1878(明治11)年の「村役所」、1884(明治17)年の「戸長役場」(戸長役場所在地は同村上戸組)はいづれも増富村1村の設置であった。市制町村制の施行に際しても増富村は1村単独で施行した。1959年、須玉町に編入合併し現在に至っている。
(関係地)甲斐国巨摩郡小尾村・比志村‐山梨県巨摩郡増富村‐北巨摩郡増富村‐須玉町小尾・比志[現在]
伝来 1966年度に他の山梨県下町村役場文書とともに、一括して古書店より購入。
入手源 古書店
範囲と内容 近世では、(1)小尾村・比志村名主(所)期(292点)、近代は、(2)布告・布達・郡衙往復(39点)などの近代法令、(3)戸長(事務取扱所)・村事務所・村役所文書(92点)、(4)戸長役場文書(29点)および村役場文書(17点)に分けられる。年貢割付状が多数あるため、近世文書が点数では過半を占めるが、本文書群の主体は近代文書にある。 (1)近世の増富村名主(所)文書では、検地、年貢皆済、田起返、小物成、夫喰拝借、金山試掘、年貢割付、水路普請がある。このうちほとんどが小尾村文書で、比志村文書として確認できるのは、年貢割付状の一部と水路普請の「御普請出来栄帳」などである。ほかに小尾村文書では、「年貢皆済目録」、訴訟関係の「熟談一札之事(小物成山立木伐取差縺)」、金山試掘関係では「入置申一札之事(御山金銀試掘)」がある。 (2)布告・布達・郡衙往復では、布告・布達(一般)と個別の法令その他郡役所達、郡衙往復がある。県からの布達・達、郡役所などからの指令・往復文書であるが、県布達などは県独自の法規のほか、県の布達を添えて発せられる太政官布告、諸省の布達を含んでいる。 (3)増富村(戸長事務所)・村事務所・村役所文書では、租税取立、地租金取調、その他の諸税・協議費、反別収穫・地価調などの土地、山林原野、学事・学校経費、および戸籍(「旅行届」)関係がある。この時期、山梨県では地租改正事務が進行し終息を遂げるのであるが、ここでは地租改正後の地券調査・地租徴収・地価修正関係の史料が多く見受けられる。 (4)[4]増富村戸長役場文書では、土地に関する一般的な史料、地価金、山林原野、水害・荒地起返、地所証明、租税・村費、徴兵関係がある。 (5)増富村役場文書では、土地、山林、荒地免租、地所証明、学事、衛生関係がある。土地・租税関係のほか村費関係では「出納日記艸稿」、徴兵関係では「徴兵国民軍届扣」、学事関係では「学事書類」、衛生関係では赤痢の「予防日誌録」など役場文書としての広がりも見せている。
評価選別等スケジュール
追加受入情報
整理方法
利用条件
使用条件
使用言語 Japanese
物的特徴及び技術要件
検索手段 『史料館所蔵史料目録』第64集
原本の所在
利用可能な代替方式
関連資料 須玉町には、主として近代の増富村役場から引継いだ、市制町村制施行以降の文書が残されているが、本文書群と同時代である戸長制期の公文書はほとんど残存していない。近世文書では、小尾村よりも比志村の分が、地元の帳箱に比較的残されている。比志村の「年貢割付状」が1651(慶安4)年以降、史料館所蔵分以前のものが残存しているのは、その一例である。一方、小尾村の分は増富村役場に引継がれ、その後、流出して史料館の所蔵となったのではないかと推測される。
出版物
注記
収蔵名称 国文学研究資料館(歴史資料)

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