【甲斐国巨摩郡河原部村文書||The ancient document of Kawarabe village, Koma district, the province of Kai】
識別記号 ac1967005
資料記号 42E
標題 甲斐国巨摩郡河原部村文書||The ancient document of Kawarabe village, Koma district, the province of Kai
年代 1783年~1895年
主年代 江戸後
年代注記 1783(天明3)年-1895(明治28)年
記述レベル fonds
書架延長/数量 .8m/126点
物的状態注記 126点(合綴された史料も1点と数えると155点)。
出所・作成 河原部村
履歴 河原部村は山梨県の中心、甲府盆地の北西部にあって、釜無川(富士川上流)とその支流塩川の流域、なかでも、その河原に位置し、これが村名の由来にもなった。近世には甲州街道に佐久往還・駿信往還が交差する位置にあり、韮崎宿が置かれた。しかし村名は引き続き河原部村と称していた。近世の地域区分では逸見(へみ)筋に属し、当初は幕府領であったが、のち甲府藩(徳川家・柳沢家)、1724(享保9)年に幕府領(甲府代官所)、1747(延享4)年に一橋家領、さらに1794(寛政6)年には幕府領に戻り、明治維新を迎えた。 河原部村の面積は、東西約13町・南北約31町で(『山梨県市郡村誌』)、『甲斐国志』によって19世紀初頭(文化年間)の村況をみると、村高1405石余、戸口は224戸・1118人(男545・女573)、馬52、牛5を数える。一橋家領時代の1753(宝暦3)年には同家の代官所が設置されている。韮崎宿は駿信往還の分岐点でもあり、富士川水運の起点として河原部河岸が置かれるなど交通の要衡として繁栄した。この間、始年は未詳であるが、河原部村名主の事務所を「河原部村名主所」と称していた。この名称はすくなくとも近世後期、1826(文政9)年には本文書群の史料の中で確認でき、また、これを刻印した公印も使用されている(史料番号13「急破自普請人足改帳」、同28「御触書」)。1860(万延1)年には、村内が東西2組に分かれ、それぞれ名主を立て「帳箱之儀も二ツ引割」けていたという(『韮崎市誌』上巻、p476)。%明治維新後、同村は、1868(明治元)年に市川県、翌1869(明治2)年に甲府県、1871(明治4)年に同県を改称した山梨県の管轄となった。大小区制期には、1872(明治5)年に巨摩郡第九区、ついで1876(明治9)年10月の区制改正では山梨県第七区に属し、1878(明治11)年12月の巨摩郡の分画では北巨摩郡に属した。戸長制が敷かれた1872(明治5)年以降は「名主所」に代わって、戸長の事務所を「公用取扱所」と称していたようである(史料番号47「戸籍雛形」)。 村の事務所の名称は、1875(明治8)年11月に「河原部村事務所」、1878(明治11)年12月に「河原部村役所」となった。1884(明治17)年9月の聯合戸長役場の発足に当たっては、更科村・祖母石(うばいし)村・下条(げじょう)村との組み合わせで河原部村外三箇村戸長役場が発足し、戸長役場を韮崎駅(韮崎宿を改称)に置いた。1889(明治22)年の市制町村制施行に当たっては、単独で施行したが、河原部・更科祖母石3か村は、河原部村外二箇村組合役場を設置した。河原部村は1892(明治25)年町制を施行し韮崎町となり、さらに3町村は1937(昭和12)年合併して韮崎町となった。戦後、1954年、韮崎町・大草村・龍岡村など1町10村が、合併して韮崎市となり今日に至っている。
(関係地)甲斐国巨摩郡河原部村‐甲府県‐山梨県巨摩郡第九区河原部村‐第七区河原部村‐山梨県北巨摩郡韮崎町河原部‐山梨県韮崎市河原部[現在]
伝来 本文書群は、124の韮崎市役所文書と一体のもので、出所は同一かとも考えられるが、戦後の史料を含んでいないので確証を得られず、それぞれ別個の文書群として独立させた。1967年度に他の山梨県下町村役場文書とともに、一括して古書店(東京都内)より購入したものである。
入手源 古書店
範囲と内容 近世の(1)河原部村名主文書(53点)と近代の河原部村の役場文書に二大別される。近代の場合、(2)村公用取扱所に村事務所・村役所を加えた期間を一時期、すなわち1872(明治5)年から1884(明治17)年までの時期(50点)と(3)河原部村外三箇村戸長役場文書(5点)および(4)河原部村(韮崎町)外二箇村組合役場文書(3点)に区分される。これ以外の出所を持つと思われるものおよび出所不明のもの(5)「その他」(15点)がある。 (1)近世の河原部村名主所文書では、領主支配・村方支配・村儀定、貢租・御用金、一般的な土地、屋敷、荒地越返、普請・水防、人別、村入費、貯穀、また作成が河原部村名主所と異なる蔵前院、河原部村からの入作地である隣村宇津谷(うつや)三組(宇津谷村の駒井・滝沢・金剛寺(持)の三枝郷)関係がある。土地・貢租関係の「損地起返小前反別帳」「田方立毛内合附毛揃帳」「田畑取付帳」「反別改帳」「勘定改帳」「一筆田畑取調帳」などの帳簿が主である。「村中議定請印帳」「普請人足改帳」「御触書」なども数点含まれ、韮崎宿関係では、宿入用、往還橋普請入用などがある。 (2)河原部村公用取扱所・村事務所・村役所文書では、村政一般、貢納・租税、土地、損地起返、家屋、普請、人別・戸籍、村費、宿・逓送、学事、不明(内容未詳)がある。 (3)河原部村外三箇村戸長役場文書と(4)河原部村(韮崎町)外二箇村組合役場文書は、少量であるがそれぞれ土地、学事・学校経費、蕃ノ木堰および租税・村費、荒地起返がある。これらのなかでは、「起返帳」や「物産諸業人銘簿」などがある。 (5)その他は、戸長役場を構成した4か村のうち、役場設置以前の祖母石村役所文書、河原部・下条両村にかかる神楽田堰世話掛文書、また隣村宇津谷村の枝郷金剛寺(持)村入用関係の文書があるほか、年次・主務者・作成者の特定が困難な「不明」がある。
評価選別等スケジュール
追加受入情報
整理方法
利用条件
使用条件
使用言語 Japanese
物的特徴及び技術要件
検索手段 『史料館所蔵史料目録』第64集
原本の所在
利用可能な代替方式
関連資料 山梨県立図書館(甲府市)で所蔵の「甲州文庫」「頼生文庫」に河原部村文書の一部が含まれている(山梨県立図書館編『甲州文書目録』上・下(1964−1971)、同編『山梨県立図書館所蔵古文書目録』第4集、1981年、参照)。また、名主を勤めた小林家の文書が阪急学園池田家文庫にある。 なお、「山梨県韮崎市役所文書」(当館所蔵、本書、42G-7)も関連史料である。
出版物
注記
収蔵名称 国文学研究資料館(歴史資料)

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