【陸奥国福島板倉家文書】
識別記号 ac1968301
資料記号 寄託
標題 陸奥国福島板倉家文書
年代 1635年~1937年
主年代 江戸
年代注記 1635(寛永12)年-1937(昭和12)年
記述レベル fonds
書架延長/数量 10m/947点
物的状態注記 947点
出所・作成 板倉家
履歴 板倉家は、江戸時代初期に京都所司代を勤めた板倉勝重の三男重種に始まる。重種は上使として派遣された1637(寛永14)年の島原の乱で戦死、翌年2月子の重矩も軍令違反のかどで一時逼塞を命じられたが、1639年遺領をついだ。1660(万治3)年大坂定番を勤め、摂津において1万石加増、1665(寛文5)年老中に起用され、1668年京都所司代、1670年江戸に戻り再び老中となる。1671年1万石加増、1672年下野烏山城主となり、下野・山城・摂津・三河・上総において5万石を領した。武蔵岩槻、信濃坂木の諸城主を経て、1702(元禄15)年陸奥国信夫郡福島城主となった。1869(明治2)年1月25日三河国重原を陣屋とし(2万8000石)、板倉勝達は重原藩知事となり、1871年廃藩をむかえた。1873年勝達は群馬裁判所勤務となり、1884年子爵に叙せられ、大正期に子の勝憲が貴族院議員になった。
(関係地)1.三河国額田郡溝‐愛知県額田郡幸田町深溝[現在]|2.三河国碧海郡中島‐愛知県岡崎市西浅井町[現在]|3.下野国那須郡烏山‐栃木県那須郡烏山町[現在]|4.武蔵国埼玉郡岩槻‐埼玉県岩槻市岩槻[現在]|5.信濃国埴科郡坂木‐長野県埴科郡坂城町[現在]|6.陸奥国信夫郡福島‐福島県福島市[現在]|7.三河国碧海郡重原‐愛知県刈谷市重原[現在]
(主題)大名|老中|京都所司代
(役職等)大名|老中|京都所司代
伝来 1968年原蔵者より323点(仮番号1―225)を寄託され、1978年に610点(仮番号226―502)の追加寄託をうけた。1983年にはさらに14点(仮番号503―516)の追加寄託(勢多家文書)をうけた。
入手源 原蔵者
範囲と内容 本文書群は(1)板倉家の家史料、(2)藩庁史料、(3)勢多家の家史料からなる。 (1)は、a.家譜・系図類、b.領知朱印状及び目録、c.位記・口宣案(1661―1804、寛文元―文化元年)、d.老中奉書・返札・書付。これは老中・京都所司代を勤めた板倉重矩宛のものが中心である。なお、幕府の役職に関わる史料はほとんど伝存していない。E.文芸関係、特に縁戚関係にある中院家のものが多い。F.武芸免許状、g.板倉家の菩提寺である長円寺(愛知県西尾市貝吹町)の普請・経営に関わる史料、h.廃藩以降の家史料、特に板倉勝達宛書状が多い。 (2)は、版籍奉還・廃藩置県前後の重原藩に関する記録類が若干あるのみで、他の時代の藩庁史料は伝存していない。家中に関する史料は、「御家中給人親類書」(1672年改、仮番号237)、「分限帳」(仮番号240)などがある。 (3)他に伝来の経過は不明だが、板倉家の家臣勢多家の史料(仮番号503―516)があり、勢多家の家系・由緒書、重原藩の「官員録」(仮番号504)、「藩士族席順并卒族」(仮番号505)などがある。勢多家の初代庄右衛門貞信は、三河国宝飯郡上清田村の出身で、本姓は小田氏であったが、1614(慶長19)年に板倉重昌に召出されて勢多と改めた。以来、板倉家に仕え、1874(明治7)年には家族一同で福島に移住したという(仮番号514「勢多家年譜録」)。
評価選別等スケジュール
追加受入情報
整理方法
利用条件
使用条件
使用言語 Japanese
物的特徴及び技術要件
検索手段 寄託史料目録またはカード目録
原本の所在
利用可能な代替方式
関連資料
出版物
注記 「板倉宗家歴世年譜 附板倉宗家系譜」(仮番号2)『文部省史料館報』8号(1969年3月)
収蔵名称 国文学研究資料館(歴史資料)

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