【越後国頸城郡田村宮崎家文書||MIYAZAKI family papers and collections of Tamura, Kubiki district, the province of Echigo】
識別記号 ac1969004
資料記号 44D
標題 越後国頸城郡田村宮崎家文書||MIYAZAKI family papers and collections of Tamura, Kubiki district, the province of Echigo
年代 1683年~1955年
主年代 江戸後
年代注記 1683(天和3)年-1955(昭和30)年
記述レベル fonds
書架延長/数量 12m/1080点
物的状態注記 1080点(923冊、2通、130綴、1鋪、24括)
出所・作成 宮崎家
履歴 宮崎家は田村の庄屋を代々勤めた家で、文政期以降甚助、甚五兵衛とみえる。高田藩は、延宝年間より幕末まで領内を郷に分け、大肝煎を置いて支配しており、田村は里五十公郷に属している。大肝煎配下の村々は大肝煎居住の村名を付した組に属し、田村は上田村組となっている。この宮崎家は1833(天保4)年に上田村組大肝煎仮役、同5年大肝煎役(仮番号708)となっている。田村は、1683(天和3)年村高721石余、他新田97石余である。天保年間の宮崎甚助の代に、桑曽根川最上流域の山間地を出作地として新田開発し、宮崎新田と称した。1845(弘化2)年の検地をうけて成立し、田畑山林合わせて反別15町余である。1838(天保9)年、上田村組北代村の兼帯庄屋を幕末まで勤め、大光寺村の兼帯庄屋でもある。宮崎家の幕末より昭和までの当主は、甚助−芳謙−礼治−悌治−吉夫と推定される(『三和町誌』1972年)。田村は、1872(明治5)年に第十大区小七区の六番組に所属し、宮崎芳謙が小七区長に就任し、1877(明治10)年には第十六大区副大区長となっている。1889(明治22)年4月の市制町村制施行から1890(明治23)年3月まで、里五十公野村村長に宮崎芳謙、1920(大正9)年2月から1925(大正14)年2月まで宮崎悌治が就いた。宮崎悌治時代、1901(明治34)年に72町歩、1944(昭和19)年には169町歩の土地を所有した大地主であった(『新潟県大地主名簿』農政調査会、1968年)。
(関係地)越後国頚城郡田村‐高田県‐新潟県中頚城郡田村‐里五十公野村大字田‐新潟県中頚城郡三和村大字田[現在]
(主題)庄屋|大肝煎仮役|兼帯庄屋|惣代|村長|地主
(役職等)庄屋|大肝煎仮役|兼帯庄屋|惣代|村長|地主
伝来 1969年度に古書店より購入。
入手源 古書店
範囲と内容 本文書群は、近世後期から明治・大正・昭和期までと広範囲にわたる。(1)田村庄屋文書、(2)宮崎新田文書、(3)上田村組大肝煎仮役関係文書、(4)上田村組北代村・大光寺村兼帯庄屋関係文書、(5)河浦村外13ケ村連合戸長役場文書、(6)里五十公野村役場文書、(7)宮崎家文書に分けられる。 (1)には、1683(天和3)年「田村御検地水帳」がある他、「御用留」(文政-天保期)10冊、近世後期の土地・年貢関係文書がある。また、天保期の村内の酒造取調等もみえる。(2)は1845(弘化2)年の宮崎新田検地帳をはじめ、「新田御用留」8冊がある。(3)上田村組大肝煎仮役関係文書に、1795-1872(寛政7-明治5)年の「宗門御改帳」353冊とまとまって残存している。(4)は、各村の兼帯庄屋にかかわっての幕末期の土地・年貢・人別関係帳簿が少し含まれる。(5)は、布告布達、土地文書等と用水・水利関係が比較的まとまってある。(6)には1919(大正8)年の道路改修工事関係書類がまとまっている。(7)家の文書には由緒等がなく、土地経営・小作に関する帳簿類が圧倒的に多い。
評価選別等スケジュール
追加受入情報
整理方法
利用条件
使用条件
使用言語 Japanese
物的特徴及び技術要件
検索手段 仮目録(昭和44年度)・カード目録
原本の所在
利用可能な代替方式
関連資料
出版物
注記
収蔵名称 国文学研究資料館(歴史資料)

Copyright © National Institute of Japanese Literature All Rights Reserved.