識別記号 | ac1969007 |
---|---|
資料記号 | 44G |
標題 | 紀伊国伊都郡慈尊院村慈尊院中橋家文書||NAKAHASHI family papers, Jison-in temple, Jison-in village, Ito district, the province of Ki-i |
年代 | 1515年~1886年 |
主年代 | 江戸後 |
年代注記 | 1515(永正12)年-1886(明治19)年頃。 |
記述レベル | fonds |
書架延長/数量 | 8m/2019点 |
物的状態注記 | 2019点(719冊、49仮冊、12綴、2帖、1047通、107枚、40鋪、31封、7コピー、5巻) |
出所・作成 | 中橋家 |
履歴 | 高野山麓、紀ノ川の南岸に位置する慈尊院は、俗に女人高野と呼ばれ、住昔は高野政所と称したという。その慈尊院に近世以降別当として存在した中橋家は、その家伝によると弘法大師の母公の実家阿刀氏の後裔と称し、近世初頭までに24代続いているが、この家伝は粉飾の疑いが多く、中橋姓始称の時期に関する異同なども後年の作為が窺え、真偽の程は確かめられない。和歌山藩の編纂による『続風土記』には、阿刀氏の中橋姓の始称は4代永誉の時とあるが、中橋家の家譜では9代光誉の代と23代元常の代とするものが2種あるが、史料上で中橋家の存在が確認できる初見は後者の元常の代である。この元常は1592(天正20)年の「慈尊院村之名寄帳」に浄光の名で登場する。 江戸期の中橋家は24代弘高の代から勘之丞・嘉兵衛を1代おきに通り名とし、慈尊院村の内、北室院蔵下に属したが、1632(寛永9)年の「北室院下名寄帳」には勘之丞(弘高63才)3石788、賀兵衛(長成40才)4石750(両人の合計8石538)と見え、1592(文禄元)年に13石余を保有し、村内で突出した存在から後退している。25代長成の代から慈尊院別当家としての史料が見られる。また26代充祇の代に「号鉄砲鑓其外武具馬具等」改めの際の「書上一札」には「私儀代々地士ニ而当所ニ致居住」とあり、1619(元和5)年浅野氏転封のあとをうけて入国した紀伊徳川氏が、土豪の懐柔策として採った地士制度は周知のことであるが、近世初頭の中橋家がその一員であったことが窺われる。27代元珎の代では、慈尊院別当としての家職のほか、寺領と他領との山論の際、高野山の衆議中の委任を受け、時には学侶方目代の肩書をもって和歌山藩の当路との交渉に当たるなど調停方や公儀巡見使案内役の総轄などを勤めている。しかし、中橋家の窮乏は28代英元の代からはじまっていたとみられ、次代の29代元昭の1780(安永9)年頃、本家長家などを失火により焼失したことが家計逼迫に拍車をかけたようである。ただ同人の代にも1788(天明8)年巡見使惣案内御用を勤めたり、1806(文化3)年天野社丹生惣神主家の後見となり、また同年正月年預表から山上下荷物支配を命じられ、年預坊役人格となっている。累積した借財への苦慮に明け暮れた元昭から後事を託され、1811(文化8)年15才で家督を相続した30代弘道は、引き続き1838(天保9)年まで惣神主家の後見を勤めながら、家運挽回を期して家職のほかに、油絞り、次いで酒造業への転換とその販売店としての三田屋作兵衛名義の高野山店の経営に乗り出すが、借財の総額が8900両となり破滅状態となった。結局、拝借金の滞りが主因となって1850(嘉永3)年弘道・元扶父子は領内差構、闕所の処断を受けるに至る。旧里を失った中橋父子のうち元扶は叔母の和州御山村の新田家の分家北厚次方に身を寄せるが、弘道は江戸に止まり一切経勧化を企図し、鉄座出願のためその準備金捻出と返済に奔走する。中橋家の山領追放から6年を経た1855(安政2)年、弘道の依頼を受けた東寺執行家から中橋家再興願書が高野山に対して提出され、翌年故復御免となり父子共旧地にもどることができた。31代元貞が1866(慶応2)年に没し、9才の幼年で家督を継いだ32代元常が12才の1869(明治2)年高野山総宰庁から、元常の20才成人まで、向こう8か年間3人扶持を宛行われることになっているが、その後の消息は未詳である。 (関係地)紀伊国伊都郡慈尊院村‐堺県伊都郡慈尊院村‐五條県伊都郡慈尊院村‐和歌山県伊都郡慈尊院村‐第四大区第五小区‐伊都郡慈尊院村‐九度山町慈尊院[現在] (主題)土豪・地士;慈尊院別当 (役職等)土豪・地士;慈尊院別当 |
伝来 | 1968年度に中橋家の縁家伊藤氏(東京在住)より当館に寄託されるが、1969年度に改めて同氏から譲渡される。 |
入手源 | 伊藤氏より譲渡。 |
範囲と内容 | 本文書群は、(1)別当職を勤めた慈尊院関係文書、(2)慈尊院村方文書、(3)中橋家の私的文書、(4)紀伊国那賀郡粉河村伊藤家文書(私的文書)とで構成される。 (1)では由緒、寺社方知行、仏事、什物、勧化・寄進、祠堂銀、作事・普請、垣内、阿闍梨、達摩堂、七社明神、勝利寺、高野山に関する文書、(2)では地頭所、法制、帳面預り、書上、貢租、土地、用水、川除普請、座講・村祈祷、村民、渡船場関係文書、(3)では系譜・家譜、日記・覚書、家職・身分、戸籍、宅地、持地、頼母子講、取替金、拝借金、借財、闕所一件、帰復御免、家産整理、親類・縁家、吉凶、家計、芸能、ト占、蔵書・写本、書状、高野山御用、天野社惣神主家、商業、山林仕出、鉄座一件、諸請負、国益献策関係文書がある。特に商業には高野紙の生産に関する天保期以降の文書がある。(4)は、中橋家廃絶後、該文書を襲蔵された伊藤家の文書(全27点)が若干混入している。過半は書画と書状類であるが、唯一江戸期の村方文書である1771(安永8)年「御尋之猫しらべ帳」の表紙には「粉河組」とあり、粉河組18か村庄屋の連印で伊藤八郎宛に差出したものであるから、伊藤家は大庄屋を勤めていたと思われる。なお、現当主伊藤醇彦氏の祖父に当たる伊藤宣將(和歌山県立新宮中学校長)は、昭和10年代に中橋家文書を丹念に目を通されたようで、中橋家文書には同人の書込みが少なくない。 |
評価選別等スケジュール | ― |
追加受入情報 | ― |
整理方法 | ― |
利用条件 | ― |
使用条件 | ― |
使用言語 | JAPANESE |
物的特徴及び技術要件 | ― |
検索手段 | 『史料館所蔵史料目録』第46集(1988年) |
原本の所在 | ― |
利用可能な代替方式 | ― |
関連資料 | ― |
出版物 | 『和歌山県史』近世史料4(1976年) |
注記 | |
収蔵名称 | 国文学研究資料館(歴史資料) |
Copyright © National Institute of Japanese Literature All Rights Reserved.