【蝦夷松前松前家文書】
識別記号 ac1971204
資料記号 F7104
標題 蝦夷松前松前家文書
年代 1624年~1909年
主年代
年代注記 1624(寛永元)年-1909(明治42)年。
記述レベル fonds
書架延長/数量 /3点
物的状態注記 マイクロフィルム;3リール 1646コマ 13冊 91点
出所・作成 松前家
履歴 松前家の始祖武田信廣は、若狭武田氏の末裔とされている。信廣は、1457(長禄元)年のアイヌ民族との抗争に勝ったことを契機とし、津軽十三湊の安藤(安東)氏の被官蠣崎家を継いだことから、蠣崎氏を名乗った。松前家5代蠣崎慶廣のときに豊臣氏の政権下で、安東氏から自立し松前氏と改称して蝦夷島支配の朱印状を受けた。その後、徳川幕府のもとでは無高の大名として当初は交代寄合ついで万石の列に準じたが、1719(享保4)年、1万石格となった。 松前藩は、石高制をとらず、生産のおもなものはアイヌ交易と漁業、砂金採掘であった。なかでも漁業は、当初、昆布・鮭など、次いで近世中・後期からニシン漁が中心となった。このほか沖ノ口収入という出入りの船舶・商品への賦課も藩収入の主要部分であった。またアイヌ人と和人の居住地を区分し住み分けしていたが、これも漸次、北上し和人地の拡大が行われていった。 近世中期、1780年代以降、ロシアとの外交問題が起こると、幕府は、1799(寛政11)年、蝦夷地東部を仮直轄したことをてはじめに、1807(文化4)年、松前藩を陸奥伊達郡梁川(福島県)に移封した。1821(文政4)年、松前家は蝦夷島に復領したが、ペリー来航などの幕末の政情の中で、1855(安政2)年、再度、蝦夷島の大半を上知され、わずかに松前・江差地方を領するのみとなった。しかし、同時に出羽国村山郡東根領などを宛行われ、石高を3万石とされた。 幕末の藩主松前崇広は、幕府の陸海軍総裁、また老中となり、1854(安政元)年には、福山(松前町)に築城した。1868(明治元)年、江差在の厚沢部の館村に移城を企てたが、戊辰戦争で頓挫した。版籍奉還後、館藩と称し廃藩置県を迎えた。維新後、松前家は子爵となった。
(関係地)1.蝦夷松前福山‐北海道渡島国津軽郡福山‐松前郡福山‐松前町[現在]|2.陸奥国伊達郡梁川‐福島県伊達郡梁川町[現在]|3.北海道桧山郡館村‐厚沢部町館[現在]
(主題)大名‐子爵;陸海軍総裁‐老中
(役職等)大名‐子爵;陸海軍総裁‐老中
伝来 松前之広氏(神奈川県横浜市神奈川区)
入手源 松前之広氏
範囲と内容 松前之広氏所蔵文書の一部をマイクロ化したものである。同家に関する記録類が多く、藩政文書とくに藩領にかかる文書は乏しい。史料は、家記、系譜、廟墓、領知目録、朱印状、藩政、外事関係に大別され、例示すれば、(1)家記・系譜・歴史関係では「松前系譜」「新羅之記録」「松前家記」「松前年々記」、(2)廟墓関係では「贈従四位源徳広朝臣三十年祭々文」、同墓表、「松前家墓地碑銘調」「松前神社造立ニ付寄付金名簿」、(3)家政関係では「家憲大要素略」「諸願届書留」、(4)藩政関係では「奉命日記」「卯御年貢米永皆済目録」「阿部伊勢守宛御内慮伺」「人口戸数調書」「江指詰足軽御扶持方調下帳」「旧藩事蹟取調処ニ関スル事項扣」「福山事件御届書写」、(5)外事・騒乱関係では「応接扣」「シャムシャイン乱記事」「御私領之節魯西亜人松前着一件」「北門史綱」、(6)領知関係では「領知目録」「家光御朱印状」「松前伊豆守嘆願書」「館藩願書」、(7)図類では「松前福山城略図」「クナシリ島絵図」などである。
評価選別等スケジュール
追加受入情報
整理方法
利用条件
使用条件
使用言語 Japanese
物的特徴及び技術要件
検索手段 マイクロ収集史料目録
原本の所在 松前之広氏(神奈川県横浜市神奈川区)
利用可能な代替方式
関連資料 松前之広氏所蔵文書(当館でマイクロ収集していないものが若干ある)
出版物 松前町史編集室『松前町史』史料編第1巻(松前町、1974年)。『史料館報』16号に概略が掲載されている。
注記
収蔵名称 国文学研究資料館(歴史資料)

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