識別記号 | ac1984301 |
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資料記号 | 寄託 |
標題 | 上野国安中板倉家文書2 |
年代 | 1623年~1932年 |
主年代 | 江戸後 |
年代注記 | 1623(元和9)年-1932(昭和7)年 |
記述レベル | fonds |
書架延長/数量 | 4m/322点 |
物的状態注記 | 一部に版本・印刷物を含む。 |
出所・作成 | 板倉家 |
履歴 | 安中板倉家は板倉周防守重宗の2男重形に始まる。初代重形は1644(正保元)年6月23日に下野国都賀郡で1000石、1661(寛文元)年12月13日兄重郷の封地のうち、5000石と新田4000石を分領され、都合1万石を領した。1664(寛文4)年4月5日付領知目録には摂津・下野郡の内都合1万石とある(史料番号147)。1681(天和元)年5000石を加増され、上野国碓氷郡安中に移った。1702(元禄15)年2代重同の時に陸奥国菊多郡に移封され、3代勝清は1746(延享3)年遠江国榛原・周知2郡に移され、相良を居所とした。1748(寛延元)年5000石を加増されて都合2万石の城主となった。翌年には封地を上野国碓氷、群馬、緑野3郡の内に移され、安中城主となった。1767(明和4)年には加増1万石、都合4万石を領した。1767(明和4)年にはさらに加増1万石、都合3万石を領した。幕府役職では、大番頭、奏者番、寺社奉行、若年寄を歴任し、1760(宝暦10)年、1767(明和4)年西の丸老職となり、1769−1780(明和6−安永9)年まで老中を勤めた。8代勝殷の時に廃藩置県を迎えた。勝殷は1872(明治5)年に一旦致仕して勝任(中山忠能7男)に家督を譲ったが、翌年8月19日に再相続し、その直後の31日に死去した。そのため、娘の種子が家督を相続し、1877年には種子の夫久和が家督を継いだが、1880年再び種子が相続した。種子は1883年隠居願いを出して、娘花子(実は妹、勝殷三女)に家督を譲り、1886年に花子の夫勝観が家督を継いだ。 (関係地)1.下野国都賀郡‐栃木県上都賀・下都賀郡[現在]|2.上野国碓氷郡安中‐群馬県安中市[現在]|3.遠江国榛原郡相良‐静岡県榛原郡相良町[現在]|4.上野国碓氷郡安中‐安中県‐群馬県安中市[現在] (主題)大名|寺社奉行|老中 (役職等)大名|寺社奉行|老中 |
伝来 | 1984年度に原蔵者から寄託。 |
入手源 | 原蔵者 |
範囲と内容 | 本文書は、(1)御手許文書が主であり、幕府の役職に関わる史料や安中藩に関する史料はほとんど見られない。A,板倉家の家関係では、系図・履歴書をはじめ、領知目録・郷村高帳、官職叙任に関する位記・宣旨、1749−1854(寛延2−嘉永7)年の間の加増・村替に伴う「郷村高帳」6冊がある。B,文化関係では、弓道・馬術等の兵法秘書、陶宮術・護身法などの武術史料、絵画・詠草などの文芸史料がある。 (2)明治から昭和にかけての家政史料として、明治10年代の世襲財産形成に関わる史料や家憲草案、第十五銀行設立関係史料、太政官「廻章留」、種子の隠居、花子の養子縁組に関する宮内大臣への願書、その他書状などがある。 |
評価選別等スケジュール | |
追加受入情報 | |
整理方法 | |
利用条件 | |
使用条件 | |
使用言語 | Japanese |
物的特徴及び技術要件 | |
検索手段 | 寄託史料目録およびカード目録(寄託) |
原本の所在 | |
利用可能な代替方式 | |
関連資料 | 原蔵者保管の系図・安中領内地図など7点は、「上野国安中板倉家文書」(当館マイクロ収集、F8402)にある。 |
出版物 | |
注記 | 『史料館報』42号(1985年3月) |
収蔵名称 | 国文学研究資料館(歴史資料) |
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