識別記号 | ac1990202 |
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資料記号 | F9002 |
標題 | 信濃国佐久郡軽井沢宿佐藤家文書 |
年代 | 1536年~1912年 |
主年代 | ― |
年代注記 | 1536(天文5)年-明治期。 |
記述レベル | fonds |
書架延長/数量 | /5点 |
物的状態注記 | マイクロフィルム;5リール 2603コマ 22冊 220点 |
出所・作成 | 佐藤家 |
履歴 | 佐藤家は、近世では軽井沢宿の本陣・問屋であったが、明治期に入り、本陣・問屋の廃止にともない、1873(明治6)年副戸長、翌年戸長となり、同年から本陣敷地内に軽井沢郵便局を開設し扱役等に任命されるが、1901(明治34)年から洋式の「軽井沢ホテル」を開業し、1938(昭和13)年の廃業まで、外国人・文人等に利用された。 軽井沢宿は、慶長年間に中山道が整備されると、沓掛・追分とともに浅間三宿として栄えた。標高900−1200mの地域で、わずかな畑作と山の木で生計を補い、参勤交代の宿駅としての旅篭屋が多く、そのほとんどが食売女(飯盛女)を抱え、宿全体が歓楽街化していた。しかし、明治維新後は宿駅の機能を失い、衰退化したが、1888(明治21)年直江津線(現JR信越本線)の軽井沢駅が開業し、大きく変貌し始めた。とくに明治20年代後半から30年代にかけて、外国人によって避暑地として開発されるに及んで、今日の賑わいをみるようになった。(佐藤芳寿著『先祖を想う 軽井沢宿本陣佐藤家の歴史』私家版、1979年、続編1989年) (関係地)信濃国佐久郡軽井沢宿‐長野県北佐久郡軽井沢町[現在] (主題)本陣‐問屋 (役職等)本陣‐問屋 |
伝来 | 佐藤芳寿氏(長野県北佐久郡軽井沢町) |
入手源 | 佐藤芳寿氏 |
範囲と内容 | 佐藤家文書は、中山道軽井沢宿の本陣・問屋を勤めた佐藤市右衛門(代々の通称)家に襲蔵されたものであり、大小2箇の木箱に収められ、総点数749点である。本文書は、1989年度に史料館の業務の一環として、史料所在調査を実施し、目録を作成した。さらに、1990年に、そのうち220点をマイクロフィルムにより収集したものである。佐藤家文書の概要は次のとおりである。 佐藤家の私的なものと、本陣・問屋役に関する公的なものに大別できるが、明治期以降のものは、一部を除いては私的なものが中心となる。 文書の年代的傾向をみると、戦国期の文書が11点、近世前期(寛永-元禄期)が38点、近世中後期(正徳-文政期)が61点、幕末維新期(天保-1877年)が146点、1877(明治10)年代以降が90点余、年未詳文書が70点余である。これからみても、半数以上が天保期以降のものであるが、戦国期や近世前期のものも比較的まとまって存在している。 戦国期文書の中で一番古いものは、1536(天文5)年の村上義清の「軍役」動員に関するものであり、この他、武田信玄文書もみられる。1660(万治3)年には市右衛門の長文の「遺言状」とそれに基づく「財産分与目録」がある。近世中後期では、1746(延享3)年の「軽井沢宿助郷帳」、1810(文化7)年の「御伝馬定書」等がある。幕末維新期では、1861(文久元)年の皇女和宮の下向に関する宿泊記録や、1865(慶応元)年、日光で営まれた徳川家康没後250回忌法会に関する「継立人馬日〆帳」等が多数残されている。1878(明治11)年の明治天皇の北陸・東海巡幸の折、軽井沢宿に「行在所」が新築され、それに関する一件書類が保存されている。 |
評価選別等スケジュール | ― |
追加受入情報 | ― |
整理方法 | ― |
利用条件 | ― |
使用条件 | ― |
使用言語 | JAPANESE |
物的特徴及び技術要件 | ― |
検索手段 | マイクロ収集史料目録 |
原本の所在 | 佐藤芳寿氏(長野県北佐久郡軽井沢町) |
利用可能な代替方式 | ― |
関連資料 | ― |
出版物 | 佐藤芳寿氏が、自分の家の文書を使用して『先祖を想う 軽井沢宿本陣佐藤家の歴史』(1979年、続編1989年)を自費出版され、本文書の理解に役立つ。また『史料館報』第52号(1990年3月)に概略が載せられている。 |
注記 | |
収蔵名称 | 国文学研究資料館(歴史資料) |
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