【山梨県南都留郡大富村勝山村戸長役場文書||The old records of Ootomi and Katsuyama village headman's office, Minami-tsuru district, Yamanashi prefecture】
識別記号 ac1966016.01
資料記号 41P-1
標題 山梨県南都留郡大富村勝山村戸長役場文書||The old records of Ootomi and Katsuyama village headman's office, Minami-tsuru district, Yamanashi prefecture
年代 1873年~1889年
主年代 明治前
年代注記 1873(明治6)-1889(明治22)年
記述レベル fonds
書架延長/数量 3m/89点
物的状態注記 89点
出所・作成 大富村勝山村戸長役場
履歴 大富村村域は、富士山の北麓、河口湖の南に位置しており、鎌倉往還(現在、国道137号線・138号線)が河口湖東岸を北上し、また、湖南を国道139号線が横断している。この地域は現在の河口湖町の南半を占めている。近世では郡内領に属し、この地域には船津村、小立村があった。『旧高旧領取調帳』によれば、村高は、船津村が202石余、小立村が218石余であった。勝山村はその西隣にある。 近代には、明治維新後、石和県、甲斐府、甲斐県を経て、1871(明治4)年より山梨県となり、大小区制期には、翌1872年に都留郡第五区、1876(明治9)年、山梨県第三十四区に属し、1878(明治11)年の都留郡の分画では南都留郡に属した。この間、1875(明治8)年、両村は合併して大富村となった。大富村、勝山村には連合戸長役場が置かれたが、1889(明治22)年の市制町村制施行に当たっては、大富村を廃止し、大富村のうちの旧船津村と河口村内の旧浅川村域とを合せて船津村とし、単独で施行した(大富村のうち旧小立村は、分離独立して単独で、市制町村制を施行)。1891(明治24)年の戸口は346戸、1813人であった。1956年、船津村、小立村、大石村、河口村の4か村は合併して河口湖町となり今日に至っている。
(関係地)山梨県都留郡船津村・小立村‐大富村‐南都留郡大富村‐船津村‐河口湖町船津・勝山村[現在]
伝来 1966年度に他の山梨県下町村役場文書とともに、一括して古書店より購入。
入手源 古書店。
範囲と内容 この文書群の年代は、ほぼ大富村勝山村戸長役場時代を下限とするものであって、両村連合戸長役場を出所とする文書と見てよいが、一部に連合戸長役場以前の「大富村役所」のものを含んでいるため、市制町村制施行後は船津村勝山村組合役場、さらに「新」船津村役場へ引継がれたものと推測される。「新」船津村役場時代の文書を確認できなかったので、「大富村勝山村戸長役場文書」とした。別項「山梨県南都留郡小立村役場文書」(41P-2)に引き継がれた可能性もないではないが、今のところそれを立証するものがない。 内容は、山梨県庁達など、県庁・郡役所の令規、中央法令、地方官衙関係文書である。例示をすれば次の通り。 (1)中央法令では、「大蔵省・内務省・開拓使・文部省御布告」「諸省卿達」「太政官諸省御布達」「太政官布告」「内閣布達綴込」「徴兵関係達」「学則」など、(2)県庁・郡役所令規・報告では、「山梨県布達表」「甲御達」「本県乙号達」「山梨県学事報告」「山梨県衛生報告」「勧業報告」「山梨県日誌」「諸進達綴」「警察往復書類」「郡役所達綴込」「回章返納綴込」「烟草作附并収穫届」などがある。
評価選別等スケジュール
追加受入情報
整理方法
利用条件
使用条件
使用言語 JAPANESE
物的特徴及び技術要件
検索手段 カード目録
原本の所在
利用可能な代替方式
関連資料
出版物
注記 関連史料として旧船津村役場文書の調査が必要と思われる。関係記事『史料館報』第4号これまでの文書群名は「山梨県南都留郡大富村役場書類」(仮番号1−88)。これに含まれていた「山梨県南都留郡大石村役場文書」(41P-3)「山梨県南都留郡小立村役場文書」(41P-2)を分離した。
収蔵名称 国文学研究資料館(歴史資料)

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