| 資料記号 |
2013Q |
| 標題 |
多賀宗之文書 |
| 年代 |
1874年~1986年 |
| 主年代 |
明治 |
| 年代注記 |
1874(明治7)年-1986(昭和61)年 |
| 記述レベル |
fonds |
| 書架延長/数量 |
20m/2080点 |
| 物的状態注記 |
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| 出所・作成 |
多賀宗之 |
| 履歴 |
明治5年(1872)9月18日に東京市神田駿河台にて陸軍中佐多賀宗義(旧土佐藩士)と宇佐の長男として生まれた。21年(1888)に成城学校から陸軍幼年学校入学。26年(1893)7月陸軍士官学校卒業。27年(1894)6 月歩兵少尉、近衛歩兵第1連隊に所属して日清戦争に従軍するも病気により一時休職。31年(1898)11月原隊復帰の後、善隣書院で中国語を学ぶ。35年(1902)5月歩兵大尉となり、翌6月直隷総督袁世凱の招聘により北洋軍官学校(北洋行営将弁学堂)の教官(保定将弁校総教習)となる。40年(1907)11月歩兵少佐。43年(1910)7月帰国。44年(1911)9月歩兵第48連隊大隊長。同年12月に参謀本部派遣将校として北京に駐在し諜報活動に従事。45年(1912)2月に承徳駐在となり第一次満蒙独立運動に関与。大正元年(1912)9月福州駐在武官。3年(1914)8月歩兵中佐へ進級し、第一次世界大戦による対独参戦によって占領した山東半島の李村軍政署長官(独立第18師団司令部付)となる。5年(1916)6月南京駐在武官。6年(1917)2月北洋軍官学校以来の旧知であった馮国璋が南京督軍であったことから江蘇省督軍顧問となる。7年(1918)1月歩兵大佐。11年(1922)8月陸軍少将に累進して帰国。12年(1923)3月予備役編入。昭和10年(1935)10月23日死去。夢城・万城と号す。また袁世凱より賀忠良・字丹臣の中国名を与えられる。
(来歴)多賀宗之文書は、宗之没後は長男宗雄氏(新宿区高田馬場住)が保管、戦時中は防空壕に保管されていた時期もあった。戦後になると宗雄氏次男の宗紀氏に引き継がれ、1959年に母屋を改築した際、隣接するアパートで保管されていたが、1985年頃にアパートを改築した際、文書の大半が宗之の三男にあたる宗隼氏(国士舘大学教授・日本中世史)の自宅(武蔵野市)へ運び出された結果、資料の大半は宗隼氏宅に保管されることになった。宗隼氏宅(1954年建築・1980年改築)では、1階の書庫に保管されていたと考えられるが、宗隼氏没後(1994年以降)に別棟の書庫(コンクリート製)に移された。一方、宗隼氏宅へ移された文書以外の残存文書は、宗紀氏宅に保管されていた。
2007年暮、当館加藤聖文が、ゆまに書房編集部上條雅道氏より知人である宗紀氏の家に残されていた文書の取り扱いについて相談を受け、2008年1月25日に多賀家(高田馬場)で残存文書の概要調査を実施した。
その後、2008年暮に宗隼氏旧宅に文書が残存していることが判明し、2009年1月18日に文書の概要調査を行い、合わせて分散されている多賀宗之文書を一括して寄贈することとなり、当館へ搬入された
多賀宗之文書は、宗隼氏保管分は文書資料中心であるが、戦時中から戦後にかけての保管状況により書簡などの劣化が激しい。なお、宗隼氏が文書の整理を行っており、重要書簡に関しては和紙で裏打ちの上、一部は原稿に翻刻されている。また、宗隼氏没後も何度か資料の出し入れが行われ、原秩序は完全に失われている。
宗紀氏保管分は、掛け軸などモノ資料が中心である。わずかに残された文書資料は水損による劣化が激しく、開披不能のものもある。こちらも原秩序は完全に失われている。
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| 伝来 |
2013年度に多賀宗紀氏・多賀淑子氏より寄贈 |
| 入手源 |
遺族 |
| 範囲と内容 |
多賀宗之文書は、多賀宗之の陸軍軍人時代に作成・収集された文書、刊行物が中心である。内容は大きく分けると①保定府弁校総教習時代以降の中国での活動記録を中心とした業務文書類・辞令類と写真、②書簡、③モノ資料(掛軸・書画・刊行物など)から構成される。また、文書群には父宗義の他に妻茂子および四男宗隼他家族関係の書簡を含む文書が混入している。
本目録では、3つのSeries(No.1:公的活動・No.2:個人・No.3:書簡)を設定し、その下に必要に応じてSub-Seriesを設定した。まず、本文書群の中核を占めるSeries No.1「公的活動」については、10のSub-Seriesを設定した。これらは多賀の軍歴に対応するものであり、列記すると以下の通りとなる。陸軍幼年学校および陸軍士官学校時代の文書(証書・辞令)から構成される「No.1:陸軍幼年学校・陸軍士官学校」、近衛歩兵第1連隊時代の文書(辞令)から構成される「No.2:近衛歩兵第1連隊」、袁世凱が設立した北洋行営将弁学堂の教官として中国へ渡った時代の文書から構成される「No.3:保定府弁校総教習」、北京から帰国後に着任した歩兵第48連隊時代の文書から構成される「No.4:歩兵第48連隊」、再び中国へ渡って北京・承徳・福州での駐在武官時代の文書から構成される「No.5:参謀本部付(北京・承徳・福州)」、第一次世界大戦参戦によって占領した山東半島の李村軍政署長官時代の文書から構成される「No.6:李村軍政署長官」、南京の駐在武官時代の文書から構成される「No.7:参謀本部付(南京)」、馮国璋の招聘による江蘇督軍顧問時代の文書から構成される「No.8:江蘇督軍顧問」、予備役編入後の文書から構成される「No.9:予備役」、年代不明文書から構成される「No.10:年代不明」である
次に、Series No.2「個人」については、「No.1:日記」、「No.2:原稿・著作」、「No.3:証書類」、「No.4:家族」、「No.5:写真・絵葉書・物品類」、「No.6:刊行物」の6つのSub-Seriesを設定した。
最後に、Series No.3「書簡」は、「No.1:来信」、「No.2:発信」、「No.3:家族」、「No.4:第三者間」、「No.5:発受信者不明」の5つのSub-Seriesを設定した。以下、3つのSeriesおよびSub-Seriesについて解説を加える。
Series No.1「公的活動」は、多賀宗之の生涯にわたる活動の大半を占め、本文書群の中核である。
なかでも多賀が中国で活動した時代にあたるSub-Series No.3からNo.10までの文書群が内容的にも重要である。これらは当該期の中国における陸軍の情報収集活動および中国側要人と陸軍との関係を窺い知ることのできる貴重な文書群といえよう。ただし、軍事情報類のなかには破損が激しく閲覧することが容易でないものも含まれる。そうしたなかでも、第一次満蒙独立運動に関する文書は本文書群のなかでも貴重である。
Series No.2「個人」は、多賀宗之の個人活動に関わるものが中心である。公的活動に関わるものも含まれるが、証書類・写真などが中心であり、内容が伴うものではない。また、本文書群は宗之死後も遺族が保管していたことから家族関係の文書も混入している。宗之に直接関わらないものも含まれるが、Sub-Seriesとして設定した。
Series No.3「書簡」は、本文書群の半数以上を占める。青木宣純や寺西秀武、松井石根など陸軍「支那通」軍人や萱野長知、薄益三など中国に関わった民間人からの書簡も豊富である。本目録では日本人・中国人の差出人は五十音順(日本語読み)、欧米人の差出人はアルファベット順、家族間は最初に個人別発信、ついで個人別受取を年代順に列記した。第三者間については、多賀宗之の変名と思われるもの(子明・子銘・子翁)もあるが、ここに収録した。不明書簡は、差出人または受取人名が記載されていない、または破損によって判読困難なものを掲載した。本文書群は何度か移動または整理が行われたため、封筒と中身が分離していたものが多く、確認できるものは原状に戻したが、多くは封筒と中身が分離したままとなっている。 |
| 評価選別等スケジュール |
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| 追加受入情報 |
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| 整理方法 |
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| 利用条件 |
高田馬場分は未整理につき閲覧できない。 |
| 使用条件 |
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| 使用言語 |
日本語・中国語・英語・ロシア語 |
| 物的特徴及び技術要件 |
一部文書は水損などによる劣化が激しく、判読が不可能なものもある。 |
| 検索手段 |
『史料目録』第112集 |
| 原本の所在 |
国文学研究資料館(歴史資料) |
| 利用可能な代替方式 |
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| 関連資料 |
外務省外交史料館所蔵「外務省記録」、防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室所蔵「密大日記」などに多賀の中国での活動に関わる文書がある。また、これらの文書はアジア歴史資料センターにてデジタル公開されている。 |
| 出版物 |
佐々博雄「多賀宗之と中国大陸-蒙古への武器輸入計画を中心として 付、多賀宗之関係書簡目録-」(『国士舘史学』第2号,1994年7月)。東亜同文会編『続対支回顧録』(原書房,1973年),宇都宮太郎関係資料研究会編『日本陸軍とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記』(1-3巻,岩波書店,2007年),尚友倶楽部編『上原勇作日記』(芙蓉書房出版,2011年) |
| 注記 |
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| 収蔵名称 |
国文学研究資料館(歴史資料) |
| 識別記号 |
ac2013017 |