日本実業史博物館準備室旧蔵資料
37TA
01.絵画/07.産業
01.絵画
07.産業
大日本物産図会 同国漆取之図・三河国名倉砥切出ノ図
明治10
1877
絵師:広重III 落款: 本名等:安藤徳兵衛 版元:大倉孫兵衛  日本橋通一丁目十九番地 
技法:錦絵 法量:349×239
数量:1 
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解説:上 日本での漆の使用は縄文期に始まっており、日本人の生活と漆とのかかわりは深い。図中の説明にあるように、漆木は雌雄が別れており、雄木から漆を採取し、雌木から実をとって蝋を作る。漆は、塗料として用いられるだけでなく、接着剤としても利用された。 図は、樹皮に傷をつける人、そこに浸み出た樹液を掻きとる人、樹液を集めた漆桶を運ぶ人が描かれている。図の左半分は『日本山海名物図会』巻三を参照していると考えられるが、同書は有名産地として吉野と熊野を挙げているものの、図の産地は特定していない。しかし、採取技法には各地とも大差がなかったようなので、三河国の事例に採用したのであろう。図中の9人全員が手拭で鉢巻または頬かむりしているのは、このシリーズの人物の特徴である。 なお、この「大日本物産図会」のシリーズには岩代国の会津蝋を題材として、漆実の採取と製蝋の図が収録されている。 下 砥石は、刀剣や鏡を始めとする金属のみでなく、塗物や磁器などの研磨にも欠かせない広い利用範囲がある。そのため、古代から各地に有名な産地があり、山城の高尾、丹波の原山、上野の戸沢のほか、伊予・越前・紀伊・肥前などは特に知られていた。 砥石は、砥粒の精粗によって、荒砥・中砥・仕上げ砥などに分かれ、また石の色によって青砥・白砥と呼びわけられた。『日本山海名産図会』巻二には、″参河名倉砥は淡白色に斑(まだら)あり″と紹介されている。図中では″八名郡名倉といふ地より切出す故に名倉砥の名あり″と説明しているが、名倉村は同じ三河国の設楽郡に属しており、正しくは八名郡川合村の砥沢山から採掘したものである。それを名倉砥と呼んだのは、名倉村(現、設楽町)の郷士名倉左近が発見したことに拠ると伝えられる。近世になっての発掘は、近くの大野村の戸村五兵衛が正徳2(1712)年から9両2歩と永7.15文を納めて採掘を始め、明治6(1873)年まで続いたという(『八名郡誌』)。名倉砥は、青砥とも白砥とも違い、粒子が滑らかで、刀剣や刺刀(かみそり)を研ぐのに優れており、また合砥(あわせど)としても用いられたという。(原島) ≪「大日本物産図会」≫  北海道から九州まで日本全国の有名な物産を、国別に描いた揃物である。1868(明治元)年12月に、それまでの陸奥と出羽の2国を、岩代・羽前など7国に分割したのを受けて、全体は75国、150図になる計算だが、約30図は確認していない。1国から2点を選んで、それを上下2段の2図に扱って大錦一枚摺りになっているが、中心部で切はなして横中判の絵を横へつないで折本に仕立てたものがあり、大倉書店の蔵版目録によれば折本は全6冊であった。揃物の一部に発行日を「明治十年八月十日御届」と記してあることにより、この揃物が同8月21日に開会した第一回内国勧業博覧会に対応した作品であることが知れる。全国を網羅する必要と1国に2点という制約もあって、採り上げた物産の妥当性には疑問も残る。物産絵の先蹤である『日本山海名物図会』(宝暦4年刊)や『山海名産図会』(寛政11年刊)などから盗用した安易な作画も混り、正確に時代性を反映しているともいえない。しかし、近代産業への転換も緒についたばかりで、実際に江戸時代と大差ない生産技法を続けていたのも事実で、着衣の細部を洋風に変えてある画面に作者の努力を認めるべきかもしれない。
史料群概要
画像有