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解説:上 図中の解説にあるように、青花紙はツユクサの花の汁で染めた藍色の紙である。製法は、摘んだ花を篩にかけて撰り分けて、樽へ入れて花液をしぼりとる。花液を紙に染める方法を、解説では″美濃紙へ刷毛(ハケ)にてひき、乾(カハカ)して又同くなすこと五六十度″としている。しかし、青花紙は、薄手和紙の典具帖を染めることがあり、1枚ずつ刷毛でぬることは技法として疑問が残る。別の記録によれば、1帖(48枚)を丸ごと花液につけて染め、それを50~60回くり返すという。図の中に、刷毛で染めている状況は描かれておらず、右端の桶を扱う女性の様子からは、1帖分をまとめて花液に浸しているようにもみえる。原料にする和紙の種類に合わせて、1枚ずつ刷毛でぬる場合と、1帖分をまとめて浸す場合の両方法があったと考えるべきなのであろうか。なお、典具帖を染めた青花紙は、青い染料が容易に拔けるので、友禅染の下絵用に利用された。明治4(1871)年における滋賀県下50村の年産額は1570帖、1268両であった。 下 近江の蚊帳には、近江八幡を中心とする八幡蚊帳と、長浜を中心とする浜蚊帳とがあった。歴史的には八幡蚊帳が古く、伝承としては古代に溯るというが、現在の形状が確認できるのは中世の鎌倉時代であり、一般に普及するのは中世末以降になる。天文年間(16世紀中ごろ)に、それまで蚊帳の主生産地であった奈良蚊帳に着目して、近在の麻布を買い集めた近江八幡の商人が、八幡蚊帳として売り出したという。これが、品質がよく、安価で、実用的な点を利用者に評価されて、三都を始め全国に出荷するようになった。原料の麻は、その後に隣国の越前や若狭からも供給された。幕末期には年間で1万疋を生産している。浜蚊帳は、八幡蚊帳よりもやや遅れて始まったと伝えられるが、近世中期以後は両者を合わせて近江蚊帳として全国の市場に供給された。(『近江八幡町史』、『近江麻布史』)(原島) ≪「大日本物産図会」≫ の解説はNo.20を参照。
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