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解説:上 図中の解説に″磨砂は山田郡長の山より出す″とあるが、場所を特定することはできなかった。『三重県史』下巻(大正7年刊)には、安濃郡の特産品として掲げ大正4年の産額は26,700円と記されているが、県内では桑名郡(同2,594円)、三重郡(同1,600円)など少量の生産が行われていたことも判明する。図は、いわゆる露天掘りの様子を描いているが、実景をどれだけ伝えているかは不明である。 磨砂の用途は、解説文に″銅鉄を磨き、畳表を製するに用ゆ。又是を篩ひ香具を和ぐ、紅をさして歯磨薬(はみがき)を製する事おひただし″とあるように、金属の研磨材から、歯みがき粉までの広い用途をもっていた。 下 石炭は、近世にも筑前や長門などで産出していたが、その効用は十分に認識されず、反射炉でも燃料は木炭であった。明治以後に、工業生産技術が欧米から導入されて石炭に注目が集まったのは、図中の説明にあるように″木炭より火気倍せるをもって、蒸気の力を用るもの、及び金石を鎔鋳するもの、ことごとく用いざるなし″であり、さらに″油を製して燈火(あかり)に用″いた。 図の説明では、産地を″長野笠取兜より産す″としているが、伊賀国の長野郷、その一隅にある笠取山、兜ともに、特に石炭の産出についての記録はない。鈴鹿部加太村は、明治~大正期に県下を代表する石炭の産出地であったから(『三重県史』下巻)、兜は恐らく加太の意であろう。図は鉱道の入口付近を描いており、炭鉱の採掘現場を描いたものとしては珍しい。ただし、これが当時の現場を実写したものであるかは不明で、図の説明で採掘方法を″金山とおなじ″と記しているように、金銀山図を援用した可能性が捨てきれない。(原島) ≪「大日本物産図会」≫ の解説はNo.20を参照。
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