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解説:上 素麺は、禅宗が中国からもたらした文化のなかの点心の一つとして、一般の日本人の食生活に浸透したものであり、中世中期の南北朝ごろには、かなり知られるようになったという。その後の普及の速度は速く、『毛吹草』(1645刊)に名物として掲載された産地は、能登のほか大和三輪、伊勢、武蔵久我、越前丸岡、備前岡山、長門長府、伊予松山で、図中の解説文の産地とほぼ一致する。『日本山海名物図会』(巻四)には大和の三輪索麺が掲載されているが、それは本図右端の枠にかけて乾す場面が中心になっている。これに対し、本図は足でこね、めん棒で延ばし、小枠にかけて引き伸ばし、さらに大枠にかけて乾燥したものを截断するところまで、製造工程が詳しく描かれている。七夕に素麺を食することが室町時代に始まっていることもあって、何となく素麺は冷たくして食べるものと思われているが、実は温い食べ物が本流であり、前記の『毛吹草』に京都大徳寺の蒸素麺が挙げられているし、冷(ひや)素麺という言葉も温かくして食べるものを、わざわざ冷したところからの命名ではないかといわれている。 下 日本周辺の海域で生棲する鯖は、本州から九州までのどの沿岸でも、冬を除く1年中にわたって収獲された。そのなかで、能登鯖は天皇の供御として『延喜式』に載っており、これが″名品″と呼ばれることになったのであろう。『日本山海名産図会』(巻三)にも″丹波但馬紀州熊野より出す、其ほか能登を名品とす″とあって、近世後期にもその名声は残っていた。図中の解説も前記『名産図会』からの引用であり、図も同書の挿図を転用している。もっとも挿図は墨一色であるのに、本図は多色刷りであるから、舟のへさきに掲げた2つの篝火から立ちのぼる煙の迫力は、原図からはうかがえない。漁法は解説文にもあるように、鰯や鰕(えび)を餌にして、10尋(ひろ)ほどの釣糸で竿を使わず、5匁位の錘をつけて投げ入れて、手繰りで収獲した。(原島)≪「大日本物産図会」≫ の解説はNo.20を参照。
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