日本実業史博物館準備室旧蔵資料
37TA
01.絵画/07.産業
01.絵画
07.産業
大日本物産図会 安芸国厳島楊枝ヲ鬻図・同広島牡蠣畜養之図
明治10
1877
絵師:広重III 落款: 本名等:安藤徳兵衛 版元:大倉孫兵衛  日本橋通一丁目十九番地 
技法:錦絵 法量:371×256
数量:1 
37TA/00036
00036
解説:上 厳島は、京都府の天の橋立、宮城県の松島と並んで日本三景と称され、図中の解説にもこのことを記しているが、いつから日本三景といい始めたか、正確な起原は不明である。橋立と松島は平安初期から名所になっていたようで、これに平安末に創建された厳島が加わったことになるが、三景の称は近世以後とされる。朱塗りの欄桿や鹿と猿は、この図に描かれるように有名であったが、鹿はこの神社の神使として飼われたものであり、猿は野猿が参詣客に馴れたものであろう。 厳島神社では、正月4日に楊枝献上という神事があり、1年分の白箸をワラ縄で結び連ねたものを祝師が奉納した。本図の題名にもなっている楊枝店は、恐らくこの神事に起因したものであろうか。但し、神事では白箸であったものを、五色に染めて土産物にしたようである。これについて『芸藩通志』(巻16)には、″楊柳・楊櫨・釣樟根の類にて作り、五色に染め、金銀泥にて蒔絵をかき″と説明し、古来からの島の名物として参詣人が必ず土産にしたと記している。現在では、宮島といえば″しゃもじ″が有名になっている。 下 牡蛎(かき)の養殖は中国やヨーロッパで、古くから行われていたといい、日本でも小規模な形では養殖していたと推定される。しかし、近世になっても播州、紀州、三州、武州などでは天然ものを扱っており、養殖牡蛎といえば安芸国(広島県)であった。その始源は、慶長期から元禄・享保期まで諸種の伝承があって、いずれとも確定し難い(『広島県史 近世1』P.639)。ただし、寛文期には、すでに定着していたと考えられている。養殖法について、図中の説明では、干潮の時に砂上に竹林の垣(ヒビ)を建て、これについた小蛎をとって、いけすの砂中に蓄養して3年目で出荷するとしているが、ヒビの建て方にも地域差があって一様ではなかった。このヒビには、牡蛎のほかにも海苔が付着して、これを収穫して広島海苔として名声があったと、『日本山海名産図会』(巻三)は記している。本図は、同書の挿画をそのまま借用している。広島湾一帯で養殖された牡蛎は、主に大坂へ出荷されたが、大坂市場を確保するための努力が、広島の牡蛎養殖を成功させたといわれており、養殖事業が流通市場と深く関係していることは、近世においても決定的な要因であった。 ≪「大日本物産図会」≫ の解説はNo.20を参照。
史料群概要
画像有