日本実業史博物館準備室旧蔵資料
37TA
01.絵画/07.産業
01.絵画
07.産業
大日本物産図会 讃岐国白糖製造ノ図・同三盆糖製造之図
明治10
1877
絵師:広重III 落款: 本名等:安藤徳兵衛 版元:大倉孫兵衛  日本橋通一丁目十九番地 
技法:錦絵 法量:365×248
数量:1 
37TA/00053
00053
解説:砂糖は奈良時代に中国から移入されているが、薬用とする程度で、甘味料ではなかった。やや広く行きわたるようになるのは室町時代後期である。当時は中国や南蛮から輸入したもので、まだ貴重品であった。その状態は17世紀まで続く。17世紀末になって、ようやく沖縄でサトウキビから黒砂糖を生産することになる。この技術が本土の各地で伝習されるのは、それよりもかなり遅れている。 讃岐の白糖は、1814(文化11)年刊の『塵塚談』に″讃岐国産は雪白の如く、舶来にいささかもおとらず″と推賞されているが、最初に白糖の採取に成功したのは1790(寛政2)年であった。わずか20年ほどで、こうした名声を得たのは、高松藩の強力な保護奬励策を背景としたものであり、これによって藩財政だけでなく、栽培農家や製造業者にも多大の利益をもたらした。 原料となる甘蔗の栽培について、上図の解説では、立冬の頃に種蔗を伏せて、春日に移植して冬至に収穫するとしているが、讃岐では麦または稲との二毛作であったから、畑か水田かでも差があり、水田だと稲刈後の立冬ごろ、畑では春土用のころに苗を植え、11月~12月に刈りとった。讃岐の甘蔗生産が成功したのは、鰊粕・油粕を主とする施肥にあったといわれ、植苗後の施肥は重要であった。上図の右上部に桶から柄杓で撒いているのは施肥の状況を描いたものである。刈り取った甘蔗黍は、皮をはいで大形の搾車にかけて糖汁を採取するが、搾車の動力には牛を使った。 こうして採取した糖汁に″蛎灰を和して、荒釜にて煎じ、あくをとること数回にして白下となる″と下図で説明しているが、この工程は描かれていない。それは、下図の題名が「同三盆糖製造之図」とあるように、三盆白製造が対象となっているからであろう。前記の説明のようにしてとれた白下(または白下糖)は、そのままでは製品となっていない。下図の右下辺に描かれているように、白下糖を布に包んで、左中央の押舟で圧縮すると糖蜜が除去されて白糖となる。これを2~3回くり返すことで、始めて上質の白砂糖が得られる。一度押舟にかけたものは、右中央に描かれている″ときだい″に移されて、とき板を使って練りを加えた上、再び布に包んで押舟にかけた。三盆白というのは、この押舟の工程を更に数回くり返して精製したものである。普通の白砂糖は、100斤の白下糖から約60斤とれるのに対し、三盆白では20~30斤しかとれないといい、きめの細かい最上級の砂糖として、現在も製造が続いている。≪「大日本物産図会」≫ の解説はNo.20を参照。
史料群概要
画像有