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解説:上 石筆は石盤に文字や画を書くための筆記具で、いわば石盤とセットになった文具であり、図中の看板にも両者が併記されている。この文具は、幕末の開国後に舶載されたものであったが、明治の義務教育制のもとで、小学校教育に導入されて一挙に普及した。導入の理由は、低学年生が最初から毛筆を使うのは難しいこと、大量に使用するには和紙の価格がまだ高かったことなどが挙げられている。これに比べて、石筆は児童にも扱いやすく、石盤に書いたものは簡単に消して何度でも使用できる便利さがあった。しかし、石盤自体が重いために携帯が不便であり、消して使えることは記録性をもたないなどの欠点があった。このため、鉛筆の量産と安価なザラ紙が登場した明治末期以後は急速にその役割を終えて交代した。 岡山県から広島県にかけた一帯に、石筆原料となる鉱石の鉱床があって、これが開発されて新商品となった。″諸国へ輸出す″とあるのは日本全国へ売り出すという意味で、″国″は″備前国″の旧国名をさしており、維新後10年当時の、国の概念ないし意識の状態を表している。なお、石筆とセットになる石盤は、宮城県雄勝浜のものが、同じく舶来品に優る品質と評価されて売り出していた。 下 白魚は、北海道から九州まで広く分布しており、成長期に海に下った白魚が産卵のために遡上してくる2月下旬から5月上旬に漁獲して食用とした。漁法は、地域により異るが、図のように誘魚灯の篝火を焚いて四つ手網で採るものと、引網を使うものの2方法が主であった。 図でとりあげられた児島郡藤戸は、現在は倉敷市に含まれ、倉敷川河口の湊であったが、白魚漁が特に他を圧していたわけではない。 ≪「大日本物産図会」≫ の解説はNo.20を参照。
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