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解説:上 硫酸塩から成る礬類は、その精度を現す色によって、白色のものを明礬(みょうばん―字義は透明な礬類の意)、緑色のものを緑礬(りょくばん、又はろうは)と呼ぶ。製品とするには、礬石を砕いて水に浸して腐蝕させ、これを煎じて発生した泡を乾燥させる。こうしてできた製品は、上質のものは紺色をしているので紺手、下等なものは浅黄手(あさぎで)というと、図の説明にあるが、浅黄手よりも下に、さらに黒味がある最下級品もあった。 礬類は、医薬品として用いられたが、媒染剤としても古くから利用され、日本でも近江・相模・讃岐などから産出したというが、そのほとんどは中国からの輸入に頼っていた。近世になっても状況は変わらなかったので、幕府は明礬の売買を厳しく規制して、しばしば法令を発令している。そのような中で、国産品で有名になったのは、1671(寛文11)年に始まったという豊後の明礬で、俗に別府明礬と称され、野田村を中心とした産出は、1736(元文元)年の大坂市場への出荷量で14万斤となり、全国産出量の大半を占めたという。幕府は、こうした国産品を和明礬とよび、輸入品の唐明礬とともに、唐和明礬といって明礬会所を設けて取引を管理した。 下 樟樹を原料とする樟脳は、古くから知られていたというが、発祥地や製法などの詳細はわかっていない。日本へは17世紀前半に、その製法が中国から伝えられたが、寛永末(1640年前後)には早くも薩摩樟脳がオランダへ輸出されたといい、急速に樟脳製造が定着して増産されたものとみえる。クスノキは、普通には楠と書くが、樟とは樹質が違い、樟脳の原料には専ら樟が使用された。樟脳生産は、前記の薩摩と、本図にとりあげられた日向、および大隅と、九州南部に集中していた。 製法は、樟の根を掘り出して細片とし、これを煮て蒸気となって液化した成分を冷やして結晶させて採集する。図では樟樹を伐り倒して幹を削っているが、含有度が高いのは根の部分にあった。蒸気の採取法として、釜の上に鉢を伏せてその内側に付着させる図が『日本山海名物図会』(巻三)に描かれているが、本図では大型の釜の上に木桶をおき、桶に冷水を流して桶の底部に結晶を付着させるようになっている。冷水を流すことで冷却を早め、効率を上げたものである。 ≪「大日本物産図会」≫ の解説はNo.20を参照。
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