|
解説:機械製糸技術の普及と向上とを目的にして、官営の製糸場を設置する必要性を説いたのは大蔵省租税方だった渋沢栄一である。その建議によってフランス人技師ブリューナを雇入れ、明治3年10月に群馬県富岡への建設を決め、5町2反6歩(約5.2㌶)の用地を買収し、1年半で繰糸工場以下、材料置場・教師や工女の宿舎・病院・倉庫などの建物をほぼ完成させた。大規模な洋風建築を未経験の土地で建設するため、煉瓦や屋根瓦の調達・製造には苦心があったが、これに尽力したのが本図の売弘人の筆頭に名を列ねる韮塚直次郎であった。彼は建設時の製糸賄方であり、始業後は工女寄宿所御賄方に任じられている。本図が工場内で販売されまたは配布されたことをうかがわせる。工場建設の進行に併せて工女の募集を同5年2月に開始するが、応募がなくて再三の勧誘を重ね、同年10月4日に開業を迎えた。本図の出版改極印は開業前月に受けて準備していたものとみえる。工場は明治26年に三井へ払下げられた後、現在は片倉工業株式会社の富岡工場としてブリューナ館以下の建物が今も残っている。(『富岡製糸場誌』参照)工場の内景はNo.69を見られたい。(『明治開化期の錦絵』より)
|