日本実業史博物館準備室旧蔵資料
37TA
01.絵画/10.地理
01.絵画
10.地理
東京日本橋繁栄之図
明治3
1870
絵師:芳虎 落款: 本名等: 版元:沢村屋板   
技法:錦絵 法量:371×732
数量:3続 
37TA/00081
00126
解説:皇居と富士山を背景に、日本橋の賑わいを描く。改印から明治3年作とわかるこの図を見ると、町並みの変化に先立って、交通・輸送手段の変化がまず人目を引いていたことがわかる。大八車、天秤棒などに混じって馬車、自転車、人力車が描かれている。馬車は西洋人によってもたらされ、外国人居留地では幕末から使用されていた。乗合馬車も明治3年から東京-横浜間で営業を始めたが、本図に描かれているのは外国人所有の自家用馬車である。画面中央のやや左に描かれている3輪の車は、自転車である。当時は「一人車」とも呼ばれた。この形は、ラントン車と呼ばれるもので、両手両足を使って動力を得るものだった。輸入されたラントン車は鉄製だったが、ほどなくこれを木製で模造したものが作られ、同時期の錦絵にしばしば描かれている。左手には、客を乗せて走る人力車と、幟を立てて客引きをする車夫が見える。人力車は明治初期の重要な発明品で、明治3年、和泉要助という人物が製造の許可を得たのが始まりという。ひとたび世に出るや瞬く間にひろがり、街にあふれただけでなく、外国にも輸出されたほどであった。ここに見えるのは、リヤカーに椅子を乗せ屋根を付けたような形で、初期の形と考えられている。まもなく丸みのある椅子と、折り畳める幌を備えたタイプが一般的となる。(田島)  江戸時代に五街道の起点であった日本橋は、江戸が東京と改称した明治時代になっても、あいかわらず東京の繁栄のシンボル的なスポットであった。図は、上野の方から橋を渡りきった南詰で、道は銀座方面へ通じている。道の西側、図の左上部の高札場は江戸以来の場所で、江戸に6か所あった高札場のなかで最も重要視された高札場であった。ただし、高札の内容は、新政府によって慶応4(1868)年3月にすべて改められている。もっとも、高札という形式が新時代の法令伝達には適切でないため明治6(1873)年に廃止されたので、最末期の画像となった。 日本橋の街路は、前記したように街道であると同時に、いうまでもなく江戸の道路であったから、人の通行量は常に多かった。その上、明治になると、図のように馬車や人力車などの新しい交通手段が登場し、従来からの馬や荷車のほか、天秤棒や岡持などの大形の荷物を携える人が混じるから、かなりの混雑となった。高札場の脇には人力車の客待ちが、現在のタクシー乗り場のように出現しており、利用者と交渉している情景が描かれている。 日本橋の下には日本橋川が流れていて、水上輸送路として重要な機能をもっていた。川の対岸、北側の川沿いに土蔵が並んでいるのは、船で運ばれた荷物を収容する目的で建てられたものであった。
史料群概要
画像有