日本実業史博物館準備室旧蔵資料
37TA
01.絵画/08.商業
01.絵画
08.商業
東京府下第一大区尾張街通煉化石造商法繁盛之図
明治6
1873
絵師:国輝II 落款: 本名等: 版元:和泉屋市兵衛板  芝神明前 
技法:錦絵 法量:358×732
数量:3続 
37TA/00101
00146
解説:本図に描かれている街区は、一般に「銀座煉瓦街」と呼ばれている。1872(明治5)年2月に起こった銀座、築地の大火をきっかけに、政府は東京中心部の不燃化を決意。銀座の再建は煉瓦造りの家屋によることを決定した。イギリス人建築家ウォートルスの設計で、京橋-新橋間の家屋をすべて煉瓦造りとした。道路は拡幅され、歩道と車道に区切られ、街路樹が植えられた。1873(明治6)年から順次できあがっていったが、西洋建築に慣れない住人の評判は悪く、この区間以外にも広げていくという当初の予定は断念された。 煉瓦街は開化期の東京名所としてこれを描いた作品が数多く存在するが、それぞれ微妙に表現が異なる点が興味深い。京橋周辺を描いたものが多い中、本図は「尾張街通」と記されているように、現在の銀座5丁目付近の景となっている。そして奇妙なことに先の道路が右にカーブしている。このように描かれた作品は管見のかぎりではほかにない。実際、現在の地図でも当時の地図でも、煉瓦街通の中でこれほど曲がっている部分は確認できない。想像するに、普通にまっすぐ描くよりこのように突き当たりにも煉瓦家屋を描くことで、奇異な景観の印象をより忠実に再現できると考えたのではないだろうか。No.102と比較してみると臨場感の差を実感できるだろう。(田島)  1872(明治5)年の大火後に建設された銀座通りの煉瓦造りの商店街の風景である。画面右手前が唐物店の和泉屋、左側があたりやとなっているが、銀座街のどの辺であるかは不明である。その上、この画では右方向へ道が大きく曲がっているが、京橋から新橋方向へ直線の街路が通っているのは、現在も当時も同じであるから、その点では実景を伝えてはいない。しかし、両側の街路樹は松と桜になっていて、歌にもなった銀座の柳は後年の植え替えによるもので、開設当時の様子が描かれている。
史料群概要
画像有