日本実業史博物館準備室旧蔵資料
37TA
01.絵画/11.風俗・娯楽
01.絵画
11.風俗・娯楽
新富座劇場之図
明治14
1881
絵師: 落款: 本名等:神山清七 版元:神山清七  新富町六丁目二番地 
技法:錦絵 法量:374×248
数量:1 
37TA/00134
00179
解説:天保の改革で、江戸の中心街から浅草猿若町へ強制移転させられた歌舞伎芝居の三座のうち、守田座が1872(明治5)年に築地の新富町6丁目へ移転してきた。移転地は、近くの築地居留地で生活する外国人を予想して1868年に開業した新島原遊廓が、前年の1871年7月に撤退した跡地で、町名の新富町は西隣りの大富町との対比から此の時に命名されたものであった。移転の出願は1872年2月29日に許可され、6月7日に建築開始、10月13日に移転した。しかし、この時にはまだ守田座の座名のままで、1875年1月から新富座と改称した。ところが、翌1876年11月に類焼し、翌年に近くの新富町4丁目に仮小屋で再開した後、1878年(明治11)年に本建築が完成した。この建築では、本格的な歌舞伎小屋で慣例となっていた表櫓を廃し、正面に花ガスで座名を掲げるといった新機軸をみせた。6月7、8日両日の開場式には、政府の大臣や外国公使を招待し、役者は燕尾服(女形は羽織袴に紫帽子)、座方はフロックコートで出迎えた。これらは座元の守田勘弥が新しい時代の演劇を創出しようという意図によるもので、歌舞伎小屋に付隨する芝居茶屋を42軒から16軒へ縮小したのもその一端であった(図の中央部に″むさしや″以下左右に分かれて記されているのが茶屋の名称である)。来日したドイツ皇孫やグラント将軍を観劇に招いたのも演劇の地位向上を計る目的であった。他の劇場が立ち遅れていたことや、市川団十郎、尾上菊五郎、市川左団次をはじめ岩井半四郎、中村仲蔵という名優を揃えていたため、明治前期を代表する演劇の劇場であるばかりでなく社交場としても認められた。しかし、勘弥の革新的な演劇活動への模索は、大衆観客の支持を得ることができず、経営的にも無理がたたって多額の負債を抱え、1880(明治13)年以後は、座主の交替や座名の変更、役者の移動など波瀾がつづいた。その後、1889(明治22)年2月の憲法発布記念会が新富座で挙行される栄誉もあったが、1909(明治42)年に松竹合名に買収され、1923(大正12)年の関東大震災の焼失で座名は消滅した。 図の手前、左右に並ぶのは芝居茶屋で、座名の看板に花ガスはないが、茶屋の前から入口左右にはガス灯が並んでいる。舞台は『翁三番叟』であるが、小鼓と大鼓の配置が違っており、小鼓の構えが右でないなど初歩的な間違いがみえる。出版人神山清七の住所は新富町6-2で、新富座(同町6-9)すぐ近くにあった。
史料群概要
画像有