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解説:作者暁斎が元治2(1865)年に信州旅行の途中で小布施村の豪商高井三九郎(同家九代目、鴻山と号す)家に滞在中の作品らしく、本図とほぼ同じ肉筆画が最近同家から発見されたという。従って、作者名に冠した″主人の応需″は鴻山を指し、右側画面上方にその顔を描いている。表題では明確でないが、本図も物価の高騰を批判した諷刺画である。図の中央から左へかけて富士山の形が描かれているが、よくみると手前には足場がかけてあり、下辺で紙に糊をつけて竿の先へつけて足場の上の人へ渡している風景がよめてくる。張りぼての富士山を製作中の趣向で、物価の高下を登山で表現するのは別掲のように常套手段なので、暁斎流に変化をつけたものであろう。ただし、物価や相場を扱ったものにしては、原画製作から2年後の刊行ではやや無責任となる。本図の右側に、日光・浅間・妙義の諸山、天狗の鼻、行者の足駄を並べたのは″高い″もので、高い物価にかけている。依頼者の名前にも都合よく″高″がついていた。作業中の人物の間に狐が1匹混入しているのもおもしろい。ところで、この図には異版があって、上部の雲の部分と、左下辺の米俵とすすきの部分が、妖怪と髑髏になっている。もとより暁斎が得意とする領域であるが、鴻山がまた妖怪画家と異名をもつ人物であり、2年後の刊行に往時を想い出して加筆したと考えれば、楽屋おちの興味は湧くが、異版の解釈については今後の検討に譲る。(『明治開化期の錦絵』より) (採寸情報)右・中央・左の版とも図柄にすきまがあいてつながらないが、すきまなく合わせた寸法を表記した。右は356×241mm、中央は355×242mm、左は356×241mm。(青木睦)
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