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解説:16世紀に南蛮貿易を通じてタバコが日本にもたらされて以来、各地でタバコが栽培され喫煙の風習が広まったが、すべて刻みタバコで煙管につめてすうものであった。それが幕末の開港によって欧米の紙巻タバコが輸入されて、タバコ業界に変化が起った。それまでは零細な小売店だけであったところへ、1880(明治13)年に岩谷松平が手広くタバコ販売を始め、1884(同17)年には口付き紙巻タバコを天狗印の名称で発売し、翌年には千葉松兵衛も同様のタバコを牡丹印として発売して、それぞれに評判であった。その後をうけて本図の村井兄弟商会の創業者村井吉兵衛が、日本で最初の両切り紙巻タバコ″サンライス″を発売した。村井は渡米してアメリカのタバコ製造法などを見学し、1894(同27)年に″ヒーロー″を売出したところ、これが大歓迎されて売上げをのばし、民営タバコ最大のヒット商品といわれた。この成功のうらには広告の力が大きかった。タバコ広告では、岩谷が銀座の本店前に「勿驚税金たった三十万円(後年には税金は六十万円に書替えられた)」の巨大な看板を出したのが有名であるが、村井もこれに負けずに宣伝につとめ、ヒーロー発売の翌年に第四回内国勧業博覧会が京都で開催されると、地元の利をいかして東山などに1文字1間(約1.8m)四方の文字看板を立てて効果を挙げた。村井の宣伝は、大阪で開催された第五回内国勧業博覧会では高さ37mの広告塔でも注目された。 この双六は、村井兄弟商店が広告用に製作したものである。図中のサンライズ、ヒーロー、ピーコックを始めとする商品名はすべて村井商会の商品であるが、これ以外にも、パーロット、嵐山、アッキスなどなど多くの銘柄のタバコを売出していた。ただ、全商品が両切りだったわけでなく、図中でいえば忠勇、日の出、カメリヤは口付き紙巻であった。また、図中には日本国内だけでなく海外の支店を挙げているが、1899(同32)年にはアメリカのタバコ会社と共同出資の営業に改組しており、ニューヨーク支店も単なる支店ではなかった。だが、これほど盛んだった民営タバコも、1904(同37)年にタバコ専売法が実施されて活動を終えた。(『たばこ王・村井吉兵衛』)
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