|
解説:現在の愛媛県新居浜市にあった別子銅山は、1690(元禄3)年に鉱山が発見されてから1973(昭和48)年に終業するまで300年近く採掘を続けた日本の代表的鉱山である。発見された時は幕府領であったが、翌1691(元禄4)年には、大坂の泉屋(住友)が運上銅を上納するなどの条件のもとで請負い、操業を始めている。住友は、16世紀後半の、いわゆる南蛮文化の時代にヨーロッパの精錬技術を受入れて、″南蛮吹き″と称する在来手法と比較して効率の高い精錬法を習得していた。この技術力が、別子銅山開坑を請負わせたものであろう。事実、数年にして年産1500tを超えたといい、1山の産銅額としては明治以前の最大記録となった。その後は年産600t前後で推移したが、明治以降は住友系の独立会社となり、新坑の開発や精錬技術の改良、精錬所の建造などによって操業を続けた。本図は、図中の二十世住友吉左衛門の識語にあるように、1691年の操業開始から200年目に当る1890(明治23)年に、記念として印刷したものであろう。近世には各種の鉱山が採掘されたが、永続的に操業できた事例は少なく、操業家としての自負が識語の中にこめられている。しかし、直後の1893(同26)年には、精錬所から排出する亜硫酸ガスが農作物に被害をあたえると訴えられ、ついには精錬所の移転計画に発展するという、公害問題をかかえていたことも忘れてはならない。
|