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解説:長野の市街地の南端は犀川が横ぎっており、これを越すには舟運を利用した。渡し舟の両岸が、丹波島村と市村であったから、丹波島渡しまたは市村渡しと呼ばれていた。この渡し舟の整備は、慶長初年(1603~11)に北国往還を改修した時といわれるが、改修の年次は史料によって違っており、特定できない。渡し舟の運行は、それより以前から市村の村長が担当しており、市村水主の名称が伝わっている。いずれにしても、北国往還の一部であるから、参勤交代の大名や善光寺の参拝客、および南北へ移動する荷物などの人と物資の通行で渡し舟は賑ったという。だが、この渡し場は、図のように中洲があるため、舟を乗りつぐなどの不便があった。そこで1873(明治6)年2月に図のような舟橋を架けることになった。舟橋は、橋脚の代りに船を継ぎ並べた上に板を渡して橋を作ったので、臨時の橋として設置されることが多く、時には本図のように恒久的な使用目的にも利用された。 この舟橋について、44艘(または46艘)の舟を繋いだという説があるが、本図には99艘が描かれている。多くの舟を固定するために金属製の鎖で連結するとともに、川中にもその鎖が水流で流されないように、支柱が設置されている。なお、この舟橋は1890(明治23)年に木橋に架け替えられたので、17年間もの間利用されたことになる。
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