日本実業史博物館準備室旧蔵資料
37TA
01.絵画/05.交通・通信
01.絵画
05.交通・通信
東海名所改正道中記 五十 亀山 関迄一り半
明治8
1875
絵師:広重III 落款: 本名等: 版元:浅草並木山清板  山崎屋清七  
技法:錦絵 法量:368×248
数量:1 
37TA/00349-050
00514
解説:初代広重が1833(天保4)年から翌年にかけて板行した『東海道五拾三次』の全55枚の揃物は、広重を風景画の錦絵作家に定着させた記念碑的な作品であることを改めて説明するまでもなかろう。反響の大きさは、これに続いて数種の″道中名所図″が企画され、中には他の作家との合作も含まれていることでも知ることができよう。その″五拾三次″を、明治維新後の状況におきかえて、三代広重が描いたのがこの揃物である。表題に『改正五十三駅』としているが、新たに新橋・沼川の渡し・堀留の渡・日野岡・豊川の5か所を追加して合計58次とし、これに起点と終点の日本橋と三条大橋を加えて60図、さらに巻頭に″目録″(重房画)をつけて全61枚の揃物となっている。宿駅名の多くは旧地名を継承してあるが、府中は静岡に、吉田は豊橋と新地名に改められている。全61枚のうち、このコレクションには戸塚・藤沢・袋井・水口の4点が未収であって、残念ながら完揃いとはなっていない。 初代の『東海道五拾三次』と比較するには、まず初代の作品が横判であるのに、この作品は竪判であって、図柄の構成に決定的な相違があることを念頭におかねばならない。とはいえ、旅人と自然とを包む詩情豊かな描写で世界的な評価を得ている初代の作品と、芸術性を比較しても意味はなかろう。この作品のほとんどに、電信線と人力車および洋傘のどれかが、時には三つとも描きこまれており、文明開化を前面に押したてた作品であることに、特色をみるべきなのであろう。ただし、初代広重は、板行の前年に道中を見聞して取材する機会をもったと伝えられるが、三代広重がこの作品のために現地を踏破したか否かは確認できていない。初代の頃に比べると交通事情などは格段によくなったとはいえ、道程の多くを徒歩で往復するには相当の苦労を伴った筈で、実現は困難だったと思われる。実際に描かれた絵を通して、この揃物の特色を以下に述べる。 まず、各宿駅の図に添えてある副題を比較してみる。副題というのは、例えば″日本橋″には″朝之景″、″三島″には″朝霞″とつけられたものである。この2例でいえば、本図では″伝信局″と″明神の社内″となっている。副題が両者で一致するのは、吉原の″左富士″、日坂の″佐夜中山″、二川の″猿が馬場″、坂の下の″筆捨山″、石部の″目川の里″、京都の″三条大橋″の6図である。(所蔵品で欠号となっている前掲の戸塚以下四宿は未調査につき対象外とする)。このほかにも、岡部の″宇津之山″が″宇都の山下″、白須賀の″汐見坂″が″汐見坂の景″となっているような類似のものが10図ある。類似を含めて、これらの図では初代の作品に酷似したものが多く、基本的な図柄を借用して点景物で変化をつけている。最も典型的な一例は″吉原″で、富士山を遠望する松並木の道が画面の手前から左奥へ大きくカーブしており、道の中央には駄賃馬に乗った人物が描かれた構図は全く一致する。両者の違いは、馬が前方に向った後ろ姿であったものが、手前に向った前むきに変り、馬上の人物も男性であったのが、傘をさした女性になっている。さらに三代の作品では松並木を縫って電信線がどこまでも続いている。 逆に、風景は同じでも一見して違いがわかるのは、近世には徒歩で渡っていた川に、渡船ができたり、橋が架けられた場所である。安倍川・大井川・天竜川がこれに該当する。島田と金谷の間にある大井川には、1870(明治3)年5月に船渡しが始り、1876(同9)年に仮橋が竣工した。「島田」の説明文に″大井川は徒わたりにして海道第一の難所なりしが、御一新後、舟渡りとなり、旅人の幸甚、実にあり難き御代なりけり″とあって、渡船の就航を挙げているが、図には木製の仮橋が描かれている。仮橋といっても、中洲へ渡した粗末な橋で、このままで本流に耐えたものか疑問であるが、説明文と図との間に作成の時間的な差があったこともうかがえる。 それ以外で、初代の作品と全く違う図柄となっているのは、御油・池鯉鮒(知立)・四日市の3か所である。「御油」の初代作品は″旅人留女″の副題をつけて旅宿の留女が強引な客引きをしている情景であったが、新作では″東入口玉すし″の副題に変って、講中の小旗を掲げたすし屋の店前風景となっている。「池鯉鮒」は毎年4月に開かれていた馬市から、知立の明神様として知られた知立神社の社頭風景の切り変えてある。「四日市」は″三重川″の副題で、強風に笠を飛ばされた旅人がこれを追いかける田園風景であったものを、一転して都会の中に移し″高砂町の貸席″を描いている。説明文に″三重県庁あり、東より伊勢へ参宮するものは、ここよりわかる″とあるように、明治になって県庁所在地となっていた土地の性格を反映させたのであろう。 しかし、初代との対比でいうならば、新しく追加した新橋以下の5駅が、ある意味で最も特色ある存在といえるかもしれない。「新橋」は″汐留鉄道館″の副題で、1875(明治8)年の作品ならば、これしかないという極めつけの鉄道始発駅を描く。三代広重としても3年前の開業以来、単独で描いてきたものだから安心して描けたに相違ない。「沼川の渡し」は原と吉原の間にあって、沼津近郊の浮島が原を西流する沼川に渡船を設けて旅人の負担を軽減させる新道だったという。図はその渡船を描いているが、これにも人力車が乗りこんでいる。「堀留の渡(目録では新所渡となっている)」と「日野岡」はセットになっていて、旧来は浜松から海沿いに舞坂、荒井、白須賀を経て二川に出たものを、浜松から浜名湖を渡る定期船で日野岡へ渡るようになったのである。浜松側の起点となったのが上新町で、そこから入野村に至る掘留運河を新設し、さらに入野村悪水路を改渫して入野川に合流させて、浜名湖を渡って西岸の日野岡まで定期渡船が開通したのは1872(明治5)年5月のことであった。日野岡は、湖西の船着場となった新所東方村のうちの小網屋が同年に地名を改称したものである。便利になったといっても、浜松-日野岡間は1日4往復で所要時間は4~5時間であった。1877(同9)年には時間を短縮するため蒸気船を就航させたが、1881(同14)年に舞浜-新居を結ぶ浜名橋が架かると、この渡船は急激に衰退した(『浜松市史』三)。図では浜松側の上新町の船溜りにできた堀留立場の景を描いている。船は屋根のないサッパ船と呼ばれるもので、荷物を混載する12人乗りと伝えられるので、図の船はやや小さく感じられる。「日野岡」は船着場から山道を上ってきたところで、二川へ通じる新道であろう。道の下に屋根が続いているが、それまでは人口も少ない村に陸運元会社の分社や郵便取扱所が新設されるなど、渡船の開通で急発展したものの、前記のように浜名橋の架設でその繁昌も一睡の夢と化したようだ。新しく追加した地名の最後は「豊川」で、ここは江戸時代から有名な豊川稲荷の所在地である。ただし、豊川稲荷は俗称で正確には妙厳寺という。そこの鎮守の?枳尼真天(ダキニシンテン)(図中で尊天とあるのは誤り)が稲荷神で、これに信仰が集ったため曹洞宗の禅刹に稲荷社が共存する、日本の典型的な神仏併存の姿がある。妙厳寺は1441年の創設というから、それほど古い寺ではない。それが稲荷信仰によって盛んとなり、三大稲荷の一つに数えられるまでに成長したのである。東京赤坂にある豊川稲荷はここの別宮である。図はその社頭風景を描く。
史料群概要
画像有