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解説:ここに集められた10枚は、小形の細長判で、いずれも福神が描かれた目出たい図柄になっている。このうち4点は大小暦が刷りこまれた柱暦である。大小暦は、毎年、大の月と小の月が変わる太陰暦の不便さを補うために、その年の大小月を記して刊行されたものである。最もシンプルな暦であって、略暦の一つに数えられるが、実は江戸時代には暦の発行には厳重な制限があって、この種の略暦も原則として発行は禁止であった。ただし、現実には、この程度の略暦は見遁されたようだ。それは、この略暦の性格にもよるのであって、10点中の5点を制作している国美は、一般には守義の名で知られている富山の絵師である。そして、これらは富山の薬売りが、得意先に配ったサービス品と考えられている。これを貰った家では、例えばNo.368-03のように中央に″火要鎮″とあれば、これを竈の前の柱にでも貼っただろう。国美以外の作品も、正月などの祝儀用配り物として使われたものと推定される。 (1) 題名に″福神鶴亀″とあり、鶴にのる大黒天と亀にのる恵比寿を描く。めでたい縁起物を増幅させた図柄である。 (2) 題名に「長命」とあって、恵比寿・大黒の2神のほかに、三浦大輔と浦島太郎が加わっている。三浦大輔(義明の別称。通常は大介と書く)は平安末期の関東武士で、88才の長寿を全うして衣笠城で敗れた。浦島はいうまでもなく竜宮城で長年月を過ごしている。上部の宝珠形のなかに″壬三小″とあり、この種の版画が製作された時代では安永2巳年と天保元寅年の両年がこれに当る。ただし、この宝珠形のなかには″じぶんよござる、はづ出さけ″とあって、″ざる″を″さる(申)″にかけると適応する年が見当らない。申年の壬(閏)3月を探すと万延元年になるが、これは大の月である。大小の違いはあるが、万延元年の可能性は高いが、断定はできない。 (3) 上述の大小暦から嘉永4年のものと断定できるが、大の月に12月が入れてあるのは誤りで、同年の12月は小の月でなければならない。同年の干支は辛亥に当るので、大黒天は猪に逆乗りして走っている。大黒が背にした松枝には、金銀貨や宝珠が鈴なりで、これが猪の走るにつれて、下にこぼれて撒かれているのは、この種の福神絵にはよく使われる手法である。 (4) 題名に″福神日出の象乗り″とあって、大黒天が恵方の旗をもって象の背に乗っており、恵比寿は馬士よろしく象に従っている。背景の旭日からも、正月の縁起物と推定される。 (5) 壬戊の年の大小暦の組合せから、文久2年のものと確認できる。図の中央に″火要鎮″とあって、火の用心札を兼ねたものになっている。大黒天の手にする盃に″いぬとし″と干支を記している。 (6) 題名に″福神日出の初空″とあり、3俵の米俵に大黒天がのり、後方に旭日を描いている。題名の脇に″辰の年″とあって、これも年初の祝儀用に使われたものであろうが、辰年の年号は確定できない。 (7) 題名に″福神業平″とあって、馬上の大黒天は在原業平の見立てである。恵比寿は馬士で従っている。 (8) これも庚戊の大小月配列から嘉永3年となるが、8月と9月の大小が入れ違いの誤りになっている。この間違いによる実害は殆どなかったと思えるが、略暦を規制した一因に、この種の杜撰さがあったのであろうか。図の下方の唐子が子犬と遊んでいるのは、戊年に因んだものである。 (9) 恵比寿と大黒の福神2神が中心で、大黒が振る小槌から小判がこぼれ落ちるという、典型的な縁起絵の形式である。 (10) 巳酉の大小暦により、嘉永2年と確認できる。下部に鶏とひよこが鳥籠とともに描かれているのは、酉年に因むことはいうまでもない。前号と同様に″火要鎮″札の形式である。
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