|
解説:東京・横浜間に電信が開通したのは1870(明治3)年1月であった。現在の通信手段とは比べものにならないが、当時の主流であった書状と比較すると、圧倒的な時間の短縮である。近世にも、離れた場所への速い伝達方法として、ノロシや手旗を使っていたが、伝達できる内容は予め決めておいた事項か簡単な数字くらいに限られる。だから電信の出現は画期的であった。 歌舞伎の場面は『山門五三桐』の石川五右衛門である。近世初頭に実在した盗賊の首領を主人公にして、秀吉と策謀を競う狂言であるが、これはその中の一場面で、場所は京都の南禅寺の楼門の上部である。即ち、地上からは数メートルの高所に、百日鬘(かつら)に厚綿のどてらを着こんだ五右衛門が銀煙管(ぎせる)をかまえて″絶景かな、絶景かな″と京都市中を眺めていると、白鷹が白絹の片袖をつかんで飛来する。その片袖を五右衛門が取ってみると、それは亡父が血で書きのこした遺書であった。実際には起こり得ないことではあるが、遠く離れた人への情報の伝達ということでは、巧みな組み合わせである。恐らく作者・国周の趣向と思うが、この絵をみる側もそれが解説なしで理解できたのであって、当時における一般人の歌舞伎の教養の深さを示すものでもある。 No.400参照。
|