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解説:錦絵新聞とよばれているものの一つ。新聞の社会面――俗に三面記事という欄に載った事件のなかから、通俗的な話題となりそうな記事を選んで絵画化し、説明文をつけて発行したのが錦絵新聞であった。東京日日新聞の記事から引用した第1号の発行が1874(明治7)年で、以後2~3年間にわたって流行的に発行されたが、1881(同14)年には終熄した。この間、東京日日新聞を本拠とした歌川芳幾が約200点、後発の郵便報知新聞の記事を扱った月岡芳年が約50点の作品を製作している。維新後に外来文化として移入された新聞が、当初の予想に反して爆発的に普及したことを背景に、新聞記事の図解と、非購読者への話題提供の手法として試みたものが一般から歓迎され、錦絵の新しいジャンルとなったといわれる。しかし、錦絵新聞が採りあげた題材は、社会面のなかでも、情痴・残虐・猟奇といった読者の好奇心に訴えるものが多く、高橋克彦氏も指摘しているように今日のテレビのワイドショーと同根であった(同氏著『錦絵新聞の世界』)。これが短期間で終了したのは、新聞に挿画が入れられるようになったこと(平仮名絵入り新聞の創刊は1875年4月)、やや後年になるが報道写真も登場、一方で錦絵界の衰退などの諸要因が重なったことによろう。 本図は、上部に明記されているように『郵便報知新聞』621号の記事に依拠して、これを絵画化したものである。解説によると、事件の概要は、山形の旅館主人後藤屋又兵衛が、東京から来演した女義太夫と通じて出奔したのを、又兵衛の妻女が捜索のため東上し、6年目に人力車夫となっていた夫と偶然に再会したというものである。女性客と人力車夫との邂逅は、樋口一葉『十三夜』にも使われているテーマで、明治になって登場した人力車が介在するところに、この話題の時代性が認められる。 なお、本図の欄外には″月岡米次郎画″と芳年の本名が掲載されており、作者欄にも″大蘇芳年″とあるが、その脇に″門人年彦″の署名がある。郵便報知新聞との契約では、当時の人気作家である芳年が表面に出ているが、実際には門人の年彦に代作させていたとみるべきであろう。(原島)
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