日本実業史博物館準備室旧蔵資料
37TA
01.絵画/10.地理
01.絵画
10.地理
浅草観世音境内細図 両国橋及浅草橋真図
明治10
1877
絵師:安治 落款: 本名等:井上安次 版元:松本平吉  両国吉川町二番地 
技法:錦絵 法量:357×716
数量:3続 
37TA/00525
00805
解説:浅草観世音と浅草橋の周辺を腑瞰図にして、3枚続の上下2段を使って超横長の画面に仕立てた風景画である。上段・下段とも上部が隅田川になっている。下段の図を上段の右側に移動すると、中間に御厩河岸の渡し場の空間をはさんで、両国橋から吾妻橋までの隅田川の右岸一帯を一望する形になる。 隅田川でいえば下流となる下段の図から説明すると、右端に上方へ向かって架かるのが両国橋、画面中央に鉄のアーム状欄干をもつのが浅草橋で、この橋の下を流れるのが神田川である。浅草橋の先、隅田川との合流部にみえる小橋が柳橋で、この橋をはさんだ両側一帯が、いわゆる柳橋の花柳街である。ところで、この下段の図については、画家の木村荘八(1893~1958)による詳細な解説が残っている。(同氏著『随筆風俗帖』1942刊)。それというのも、図の右端に近い、両国橋手前の広小路の一画にみえる2階に赤白の市松格子をつけた(実際には五色のガラス戸であったという)広い間口の角店が、著者木村荘八の生家だったからである。店の名は″いろは牛肉店第八支店″という。著者の父・木村荘平は牛肉店の″いろは″を開業し、つぎつぎに支店をふやし最終的には東京市内に21支店を設けた。牛肉店といっても、生の牛肉を売るとともに、当時は牛鍋屋といった料理屋、今日のすきやき店が主力であった。同書の説明によると、川向こうの、両国橋の先にみえる大屋根は回向院、その右、絵の端に立つ尖塔が港屋という″ももんじ屋″(猪などの獣肉料理店)である。両国橋に通じる街路に面した家の、手前から4~5軒目には錦絵の版元として本図を出版した松木平吉の店があった。その前面にある木立は三角原と俗称した空間で、元来は火除け地であったものが、空間の少ない下町の子供たちのよい遊び場だった。浅草橋の側に建つ西洋建築は郵便局である。木村氏の解説には、同氏の記憶に残る生家周辺の家々についての記述があるので、関心のある方は参照するとよい。同氏の解説で見落せないのは、本図の成立年に関する考証である。本図の左下辺には作者である井上探景の落款とともに、″明治十○年○月○日″の刊記がある。十と年との間は少しあいているが、いろは第八支店の開業が明治19年と伝えられるので、木村氏はこれを″十九年″と推定している。探景は明治22年9月に没しており、原図にある″十″を活かして19年しかないという考証は納得できる。 上段の図は、浅草寺を中心にして吾妻橋から上流一帯を描いているが、今戸辺から対岸へ渡る竹屋の渡しには及んでいない。対岸の中央よりやや右にみえる水路は中の郷で、その左右は幕末には水戸家、佐竹家の下屋敷であった。図の右端に近く対岸へ渡る吾妻橋の手前にあるのが浅草広小路である。ここには、俗にガタ馬車と呼んだ無軌道の小形乗合馬車が客待ちしている。広小路のはずれ、鉄道馬車が浅草橋のほうへ大きく曲がっていく所に建つのが雷神門(雷門と通称している)である。ここから浅草観音への参詣道は、今では仲見世といって、路の両側に商店が並んでいるが、本図では路の東側だけに、それらしい店が赤く描かれている。参道奥の山門の脇に五重塔が、現在とは逆に山門の右側に建っている。山門の手前にある木立の中には伝法院があって、これは現在も旧観が残っている。浅草寺の本殿は、他の山門などとともに関東大震災で焼失し、さらに戦災にもあって、再度再建されている。(原島)
史料群概要
画像有