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解説:東京名所を描いた48点のうち1枚。本コレクションにはこれともう1点(No.441「神田明神」)しかないが、「昇斎一景展」図録(町田市立博物館、1993)に43点紹介されている。全体に、開化名所よりも伝統的な風景を中心とし、「赤絵」的な色使いは抑えられている。構図には前景のモチーフを極端にアップにする手法が多く用いられ、初代広重の「名所江戸百景」を強く意識したものと思われる。なお、このシリーズには目次が付属しており、そこに記された序文が、一景の経歴を知る唯一の手がかりとなっている。それによると、一景は初め京都に遊歴し、円山四條派を学んだという。一景の作品が江戸の出版界に登場するのは1870(明治3)年が最初と見られているので、本シリーズは初期の作品といえる。実際、人物の描法には円山四條派の版本、たとえば山口素絢の作品に見られるような特徴的な表情が見られる。 本作品の京橋は中央区日本橋と銀座の間にその地名を残しているが、京橋川の埋め立てにより、現在では橋はない。図では手前が銀座で橋の向こうが日本橋側であろう。銀座はこの後1872(明治5)年2月に火災にあい、その後石造りの西洋建築いわゆる「煉瓦街」として再興され景観が一変する。右手の店舗の看板には「□すや針」「はり問や」の文字が見え、京都三条河原町を本店とする針問屋「御簾屋」であることがわかる。この店は、煉瓦街となった後にもこの地で営業を続けていたことが、1882(明治15)年頃に描かれたNo.670を見るとわかる。橋のたもとに立っている旗に「郵便」の文字が見える。郵便制度はこの年、前島密によって導入された。 このような繁華街を牛たちが闊歩しているところが、本作品の特異な点である。これについて先の「昇斎一景展」図録では、1870(明治3)年に築地に設立された牛馬会社との関連を指摘している。牛馬会社とは、士族の失業対策として政府によって設立された会社で、乳製品を製造していた。(田島)
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