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解説:国外へは慶応2年のフランス博覧会に出品し代表を送っているが、国内で開催した博覧会は東京・御茶の水の聖堂におけるこの博覧会が最初とされる。だが実際には、同4年5月に九段の招魂社内で大学南校所属の物産局が所有する資料を物産会の名称で展示しているし、同年10月には京都の西本願寺大書院で和漢の古器類を集め博覧会と称して1カ月間開催した。前駆的両博覧会に関与したのは陶器などの古器物収集保存家としての蜷川式胤(のりたね)であった。九段の会に出品者として参画した蜷川は、東寺坊官の出自を活かし京都でも同種の会を開くよう説得し、東京より5カ月早く実現させた。蜷川は4年12月に文部省博物局御用に任じられ、本図の昌平坂博覧会の開催にも重要な役割を演じたと推測される。本図及びNo.130で見るように、当初の博覧会は新規の発明機械よりも古来の器物の展示が多く、博物館と博覧会が未分化の状態であったが、蜷川は「方今日本人は新奇を競ひ……古器物等を疎み」数年後には往古を考証する品物が皆無になることを防ぐため博物館の設置を建言し、8年3月には内務省博物館掛に採用されている(『蟻川式胤追慕録』)。(『明治開化期の錦絵』より) (採寸情報)右・中央・左の版とも絵がつながらないが、すきまなく合わせた寸法を表記した。右は353×237mm、中央・左とも355×237mm。(青木睦)
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