日本実業史博物館準備室旧蔵資料
37TA
01.絵画/05.交通・通信
01.絵画
05.交通・通信
東京市街鉄道馬車万世橋通行ノ景
明治15
1882
絵師:国利 落款: 本名等:山村清助 版元:長谷川其吉  小伝馬町三丁目十六番地 
技法:錦絵 法量:359×716
数量:3続 
37TA/00590
00905
解説:この場所にはもと筋違橋と呼ばれる橋があった。江戸城筋違橋門がその役割を終え、見附が解体される際、その石材を利用して作られたのが万世橋である。九州から技術者を呼び、二つのアーチをもつ、眼鏡橋の形式の石橋が1873(明治6)年に完成した。今日では「まんせいばし」と呼ばれているが、本図の橋の親柱に書かれているように、当初の名は「よろづよばし」だった。そのためしばしば「万代橋」とも表記される。石造の橋は東京では珍しかったため、開化名所の一つとなった。 その橋の上を、3台の鉄道馬車が往還している。鉄道馬車は1882(明治15)年に開業して以来、東京市街の主要地域を結ぶ交通手段として繁栄した。それ以前から行われていた乗合馬車にくらべ、快適性、利便性にすぐれていた。しかし馬車である以上、馬の糞尿の問題や、道路を傷める問題があり、また西洋における電車の発達の影響を受けて、1903(明治36)年、軌道はそのままに、動力は電車へと転換する。 鉄道馬車最初の区間である新橋-日本橋間が開通するのは1882(明治15)年6月だが、『東京馬車鉄道』(「都史紀要」33、東京都、1989年)によると、本図のように、万世橋上を鉄道馬車が通行するのは、万世橋から上野山下までの区間が開通する同年9月6日以降のことだという。ところが、本図左下には「明治十三年 御届」と記されている。とすればこれも、鉄道開通の折りに数多く見られたように、実物を見る前に制作された作品であると考えられる。『東京馬車鉄道』によれば、営業の認可は1880(明治13)年のうちに下りているため、「鉄道」も「馬車」も既知の存在である当時の絵師には、予想図を描くことは容易だったはずである。 そこで、本図の車体をよく見てみると、奇妙な点がある。実際の鉄道馬車は一等と二等の区分しかなかったが、本図では上等、中等、下等の三種に区分されている。また、橋の上は単線なのに、馬車は双方向から橋に向かっている。また、下等の座席がむき出しになった車体は、ほかの作品には見られない形である。これも想像の産物かもしれないが、実はこの形の車体は、一台だけ「夏用車」として使用されていたらしいので、何らかの情報を元にして描いた可能性も否定できない。(田島)
史料群概要
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