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解説:近世の長崎には、徳川幕府が鎖国政策をとるなかで、オランダと中国を相手に、対象とする唯一の開放地として承認した出島を擁していたから、その遊郭も独特の傾向をもっていた。俗に″京の女郎に、江戸の張りをもたせ、長崎の衣装を着せて、大阪の揚屋で遊ぶ″のが、最高の至福と称されたが、三都の遊郭の間へ長崎が加えられたのも長崎遊郭の特殊性を認められたからといえる。 しかし、長崎の遊郭史の起源については確証が得られていない。数次の火災で史料が焼失した故といわれているが、創始の年代は1606(慶長11)年または1607(同12)年と伝えられる。その時の所在地は博多町であって、丸山町への移転は1634(寛永11)年~1642(同19)年の諸説があって、これも確定できない(古賀十二郎『丸山遊女と唐紅毛人』)。この間には島原の乱という事件も起こっていて、これとの関連も皆無とはいえない。いずれにしても、17世紀中ごろには丸山遊郭は成立している。一般に丸山遊郭というが、本図にもあるように、実は丸山町と寄合町の両町で形成されていた。面積比では寄合町の方が大きかったが、後で追加されたために先行の丸山の地名が優先した。最盛期の元禄期には両町合計で1443人の遊女を抱える歓楽街であった。近世の遊郭は、丸山遊郭に限らず一般人の居住地から隔離された区画であり、そのために周囲に堀や塀をめぐらせて出入口を1ヶ所に制限してあった。丸山遊郭の場合は塀で囲っていたが、出入口に接して船大工町と隣り合っていた。図の中央下部に″二重大門″とあるのは、丸山町の出入口の大門と、船大工町の大門とを別個に設置したために生じた現象である。図の下辺に屋根の一部が見えているのが船大工町の大門なのである。 丸山遊郭の特色の一つは、前記した出島のオランダ商館や唐人屋敷へ、所属の遊女が派遣されることである。出島との位置関係は、本図の左側に″玉浦風景″として描かれているので理解できよう。もっとも、本図は開港後の1862(文久2)年の版行であるから、廓内に洋服姿の西洋人や、中国人らしい大道芸人が描かれている。(原島) (採寸情報)6枚の版とも図柄にすきまがあいてつながらないが、すきまなく合わせた合計寸法を表記した。各1枚の寸法は、右から順に349×239mm、350×237mm、347×237mm、348×237mm、349×237mm、350×238mm。(青木睦)
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