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解説:内国勧業博覧会は、明治政府が殖産興業政策の一環として開催した博覧会。1877(明治10)年に第1回の博覧会が行われ、以後、1881(明治14)年、1890(同23)年、1895(同28)年、1903(同36)年と5回行われた。万国博覧会の国内版というべき形式で、全国各地から出品された。内容は、鉱工業、農業、美術工芸など多岐にわたる。 本図は1881(明治14)年、上野公園で行われた第2回内国勧業博覧会で建てられた建物の一つ。通常五角堂と呼ばれるが、五角形ではなく、函館の五稜郭のような星形をしている。本図ではその形が強調されすぎて、内部空間がほとんど無いかのごとくになってしまっている。場所はメイン会場である博物館の裏手、北東の位置に建てられた木造の小亭である。同時期に出版された他の図(たとえばNo.126)では「休所」と記されている。本来の名称は「五稜亭」といい、星形をシンボルマークとする開拓史が建設した。その木材は北海道のものを用い、また木材見本が亭内に展示されていた。さらに、内部には10点の写真額が掲げられ、北海道開拓の様子を表していた。開拓史は、明治初期の太政官に属する一官庁で、北海道の開拓を任務とした。1869(明治2)年に設置され、1882(明治15)年に廃止された。 小林清親は、1876(明治9)年より東京名所を題材に「光線画」と呼ばれる洋風版画の制作を始める。印刷技術は木版錦絵だが、遠近法、陰影法を取り入れ、従来の浮世絵とは全く異なる表現を生み出した。単に西洋風であるだけでなく、夕暮れ時や、夜景を多く描き、しみじみした情趣を醸し出すことに成功した。版元は初めは松木平吉、1879(明治12)年からは福田熊次郎となる。1881(明治14)年1月と2月に、神田、両国で大火が発生し、清親はその燃えさかる火災の様子や灰燼に帰した街の情景を描いているが、これより後は、それまでの詩的な情趣を漂わせる光線画の東京名所をやめてしまう。同年3月以後に描かれたと見られる本図は、技法はそれまでの光線画と変わらないが、画面構成は緩慢な印象がある。(田島)
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