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解説:本図に描かれている街区は、一般に「銀座煉瓦街」と呼ばれている。1872(明治5)年2月に起こった銀座、築地の大火をきっかけに、政府は東京中心部の不燃化を決意。銀座の再建は煉瓦造りの家屋によることを決定した。イギリス人建築家ウォートルスの設計で、京橋-新橋間の家屋をすべて煉瓦造りとした。道路は拡幅され、歩道と車道に区切られ、街路樹が植えられた。1873(明治6)年から順次できあがっていったが、西洋建築に慣れない住人の評判は悪く、この区間以外にも広げていくという当初の予定は断念された。 京橋のやや北から京橋越しに銀座大通りの煉瓦街を望んでいる。この図は他の煉瓦街の図と大きく異なるところが2点ある。1つは煉瓦家屋の形。本図では巨大な1つの建物のように描かれている。他の図では異なるファサードを持つ多様な建築の連なりとして描かれているのと対照的である。初めて見る光景に対し、街の雰囲気を写すだけで精一杯だったのだろうか。 またこの通りは歩道と車道に区切られ、その境には街路樹が植えられていたことが知られるが、本図にはどちらも見られない。煉瓦街の最初の部分である銀座1丁目2丁目西側(本図に描かれているのもこのあたり)が落成したのが、1873(明治6)年5月8日であり、改印から想定される本図の制作時にはまだ道路の整備までできていなかったと見える。(田島) 明治5年2月の大火で現在の銀座一帯が焼失した時、東京府知事の由利公正は東京の中心街を不燃化建築にすることを計画し、2階建ての煉瓦家屋の建設を強行した。その結果が本図であって、手前の京橋から新橋方向を眺めたところは単調な洋風建築の並列になっている。表通りの一等から裏側の三等まで等級をつけたが、住民の合意もない市街建設だったから入居希望者が少なく、空屋では見世物が演じられたり、表通りに飲食の屋台が並ぶなど、外観の西洋風とは不似合な光景がしばらく続いたという。実際には、住みたくても外人が設計したので畳を敷けないなどの現実的な障害も介在したようである。そして、外観に合わせてこの街を″煉瓦″と俗称するようになったが、表題は煉化と聯家との同音を洒落れて名付けたのであろう。(『明治開化期の錦絵』より)
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