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解説:鎖国政策から開港への転換により、外国人の居留地を抱えた横浜の遊郭対策として、まず1859(安政6)年6月に港崎廓(みよざきくるわ)が仮宅で営業を開始した。同年11月には同所で本格営業となるが1866(慶応2)年10月に焼失し、太田町での仮宅、吉原町廓を経て1872(明治5)年に高島町に移転した。高島町への移転は同年7月20日に願出ており、正確な許可月日は不明だが、同年末にはすでに30軒ほどが営業を始めていたという(『横浜市史稿』風俗編)。高島町というのは、横浜の実業家高島嘉右衛門が、鉄道開通計画に合せ、鉄道敷地として新規に埋立てて献納した見返りに、その敷地の沿道を免税の私有地として取得し、72年3月に新しく町名を付与されたものであった。 こうした経緯によって、高島町遊郭は、そのすぐ前を鉄道が走る構図となっていた。そして、鉄道の利用者が増加するに従って、車窓から遊郭の遊興場面が観察されることへの批判が生じ、遊郭の移転は必至となり、1881(同15)年4月限りで撤退することが決定された。ただし、次の吉田町遊郭が完成したのは1888(同21)年7月のことで、その間は長者町などでの仮宅営業が続いた。(原島)
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