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解説:京都御所を南西方向から俯瞰した図。庭園の形をよく見せるためか、建物群はほぼ透視図法に則っているのに、庭園は俯瞰図法で描かれている。そのため地面が右上にせり上がっているように見える。 紫宸殿、清涼殿、小御所、御学問所、常御殿など主要な建物については現状とほぼ同じだが、いくつかの建物は、現在では失われている。特に北西のブロック、すなわち清涼殿の北側に見える御台所、東対屋、西対屋などの後宮部分は、今日では取り払われて大きな空白のスペースとなっている。 御所の周囲は、江戸時代には公家の屋敷が建ち並んでいたが、明治維新後にはこの地を離れるものが多く、荒廃しつつあった。そこで1877(明治10)年から11年にかけて整備され、京都御苑と呼ばれる公園として生まれ変わった。本図は玉砂利の広い道が完成しており、御苑が整備された当時の様子を描いたものと思われる。御苑には多くの人々が訪れ、御所の内部は特別公開が行われているらしく、参観者が順路に従って列をなしている。現在も行われる春秋の一般参観では西の門から入って一回りして戻る順路だが、この図では東の建春門から入って北側を回っている。 上の余白に書かれた和歌「往きかひもかぞへ尽くせじ玉しきのにはの真砂の数にくらべて」は、京都の公家で勤王家として知られた高松保実(1817-78)による。(田島)
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