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解説:富山市の西域を貫通する神通川を渡るために、古くは渡舟が使われていたが、近世になって川の中に船を繋ぎ並べる船橋に変わった。日本の主要街道の一つである北陸街道を中断させぬために必要な措置だったのであろう。架橋場所は、図にもあるように城下側の七間町(七軒町ともかく)から、対岸の船頭町とを結ぶものであった。しかし、船橋の始源については、1606(慶長11)年説と1661(万治4)年説とあって半世紀近い差がある。後者の説は、その前年に前田家の支藩が富山へ移動したことに関連させて、城下町整備の一環としての位置づけがみられる。あるいは、それ以前から存在した船橋を、制度的にも構造的にも補強して確立したと考えるべきであろうか。渡した船の数は、当初は52艘だったが後に62艘となり、板の数も後年にはふやしたといわれる。1901(明治34)年以降の河川改修工事によって、川のつけ替えが行われたため、旧跡を現況で正確に示せないが、本図左端に描かれた常夜灯は1799(寛政11)年に寄進されたもので、現存している。作者の国義は、富山で活躍した錦絵画家で、多くの画号をもつが一般には守美の名で知られており、各種の作品を描いたが、とくに富山売薬の薬売りが土産用に配布する福絵などを多量に手がけた。(原島)
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